一體こんな呑気《のんき》なことであたしいゝのでせうか。」
 歳子は飽満に気付いて、あるとき婚約中の良人に訊《き》いた。すると良人は思慮深く考へてゐたが、すぐ明るく眉《まゆ》を開いていつた。
「といつて、なにも強《し》ひて苦労を求めるのも不自然ですよ。まあ、呑気にしてゐられるうちはしてゐるんですね。」
 歳子は未来の良人の頭の良さを信頼すると共に、あまり抱擁力のある明哲なものに向つて、なぜかいくらか反感を持つた。
 兄の家へ戻つてから間もない日のことである。歳子は兄と一緒に音楽会へ行つて帰りにベーカリーに寄つて、そこで喰べたアイスクリームのバニラの香気が強かつたためか、かの女は家へ帰つて床《とこ》についても眠られなかつた。腺病質《せんびょうしつ》のこどもだつた時分に、かういふ夜はよく乳母《うば》が寝間着の上に天鵞絨《ビロード》のマントを羽織《はお》らせて木の茂みの多い近所の邸町《やしきまち》の細道を連れて歩いて呉《く》れた。天地の静寂は水のやうに少女を冷やした。するとかの女は踏む足の下が朧《おぼろ》になつてうと/\として来た。かの女の口が丸く自然に開いて小さい欠伸《あくび》が出た。目敏《めざと》く見付けた乳母は、「さあ、やつと宵の明星さまがお手を触れて下さいました」といつて、ふうはりかの女を抱き取つて家へ入り、深々と寝床に沈めて呉《く》れた。
 それを想ひ出したので、歳子はやはり寝間着の上へ兄が洋行|土産《みやげ》に買つて来て呉れた編糸《あみいと》のシヤーレで肩を包んで外へ出て見た。今更死んだ乳母《うば》に伴つて連れて歩いて貰《もら》ひ度《た》いといふやうな幼い憧憬《あこがれ》の気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人《おっと》にがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。二人の紳士は歳子の上に現はれる眠りのやうな生理的現象を生理的生活の必然的要求と受取つて、親切に労《いたわ》つては呉れようが、それ以上の深いものを認めては呉れないだらう。それは極めて幼稚な考へ方にしろ、あの乳母のやうに人間の総《すべ》てのものとして、しんからの尊敬と神秘観を持つてかの女を扱つて呉れる素質は兄にも良人にも全然なかつた。たとへ愛の手は同じでも、あの乳母とは感触の肌触りに違つたものがあつた。歳子は生れつきかういふことを感じ分けるに敏感な本能を持つた女だつた。
 かう
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