洋の哲人の綺麗《きれい》な詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花の撒《まき》ものを踏み越した。そして葉の緻密《ちみつ》な紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]《のうぜんかずら》のアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人《おっと》とも、まるで縁のない人間のやうに思へた。


 歳子の兄の曾我弥一郎と、歳子の婚約者の静間勇吉とは橋梁《きょうりょう》と建築との専門の違ひはあるが、同じ大学の工科の出身で、永らく欧洲に留学してゐた。文化人とは恐らくこの二壮年などをいふのであらう。彼等は近代の文化人とはあまりに知性が冴《さ》え返るその寂しさと、退屈をいつも事務か娯楽で紛らしてゐなければならないといふことを十分承知して、そして実際それをやつてゐるほどの文化人だつた。
 帰朝後はいよ/\交際を密接にした弥一郎と勇吉とは、寵愛《ちょうあい》してゐるパイプ――ネクタイピン――卓上の一枝の花――を一方は割愛し、一方は愛用し始めるといつた無雑作《むぞうさ》な調子で、兄はその友人と自分の妹の婚約を取計《とりはから》つた。もつとも、二人の男同志の間には、歳子をよその人間には遣《や》り度《た》くない愛惜があつた。兄は折角素直に生ひ立つた妹の愛すべき性格を知らない他人に、猥《みだ》りに逆撫《さかな》でさせたくないといふ真意から、また勇吉は自分が自分とはまつたく性格の反対なこのナイーヴなロマン性の娘を兄に代つて護り育てられる資格と自信を持つたものだから歳子の授受の内容には極めて親切で緊密な了解が働いてゐた。
「あの子は近頃どうしてゐるかね」
「あの子かね。は、は、は、あの子は少し退屈してゐるやうだね。僕が少し詰めて工房へ入り切りだからね。」
 何か弥一郎と勇吉が外の会合で顔を合はす場合には、こんな問答が交された。歳子をあの子と呼ぶことに二人はおの/\の立場で、歳子を愛し理解する黙契を示し合つてゐた。
「ぢや、僕の方へ少し寄越《よこ》しとけ、僕はここ三週間ほど仕事の合間だから、相手になつてゐてやれる。」
 こんなふうにして歳子は婚約中の良人《おっと》の家と兄の家の間を愛撫《あいぶ》され乍《なが》ら往復した。幸ひ兄はまだ独身だし、良人の家には叔母《おば》がゐたが、この中年寄《ちゅうどしより》は寄人《よりうど》の身分を自認して、何にも差出なかつた。

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