まず》いた。そして歳子をも促してさうさせた。澄む水に二人の顔が写つた。暁《あかつき》まへの水の面は磨きたての銅鏡のやうにこつくり澱《よど》んで照度に厚味があつた。
いつの時代、どこの人間とも判らない若い男女の顔が水底から浮び出た。
しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。
「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」
歳子は襟元《えりもと》へ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安も湧《わ》かなかつた。
それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚《こうこつ》に浸《ひた》つてゐるやうな渺茫《びょうぼう》とした気持ちだつた。
近くの森から飛び立つた小鳥が池の面を掠《かす》めて飛ぶと二人は同時に顔をあげた。
月は西に白けて、大空は黎明《れいめい》の気を見せて来た。そこに天地が口を開けたやうな一種いふべからざる神厳と空虚の面貌《めんぼう》の寸時がある。
歳子は殆《ほとん》ど一晩語りに語り続けた青年の矛盾《むじゅん》してゐるやうな、独断のやうな言葉を聞き明したが、決して退屈しなかつた。そして高踏極まる話をする青年の言葉の底に却《かえ》つて切ない人間の至情を感じて、何か歎《なげ》かずにはゐられない気持ちになつた。歳子は哀れな優しい溜息《ためいき》をした。
「たうとうあなたに溜息をさせてしまひましたね。それは僕ばかりのせゐぢやないのです。月のせゐでもあり、夏の夜のせゐでもありますよ。夜気に湿つた草の匂ひのせゐでもありますよ。でもよく幾夜も僕の夢遊病症につき合つて下さいましたね。これが最後の夜と思へばお名残り惜しいけれど、もう夜もぢきあけます。僕たちはもうお別れしなくちや……。平凡で常識な昼日中がやつて来ます。僕たちが折角《せっかく》夜中《よるじゅう》かかつて摘み蒐《あつ》めた抒情の匂ひも高踏の花も散らされて仕舞《しま》ひます。」
そして彼はさう云つたあとはむつつりと無言で、丈《たけ》の高い庭草を分けてのし/\と歩き出した。
結婚の前夜、歳子は良人《おっと》に牧瀬の庭の夏の夜を話した。すると良人は例の思慮深さうに一考した後、眉《まゆ》を開いて云つた。
「美しい経験だ。『夏の夜の夢』と題して、あなたのメモリーに蔵《しま》つて置くといゝですね。そしてあなたのこころが結婚生活の常套《じょうとう》に退屈したとき、と
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