上に並べて、枝の鳥のやうに口笛を吹きかはすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合つた男性と女性とでありたく思ふのです。」
 微風が草の露《つゆ》を払ふ。気流の循環する加減か遠い百合《ゆり》の畑からの匂ひに混つて、燻臭いにほひがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰《やいん》に乗じて煙突の掃除をしてゐるのだと牧瀬はいつた。その埃《ほこり》の加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色の靄《もや》が立て籠《こ》めて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ/\と誘ふやうに見える。牧瀬はしばらくたゆたつてゐたが、靄の幻を見詰めながらたうとう語つた。
「むかしの牧神と仙女はそんな無駄なあがきを彼等の間柄の仲では一切しませんでした。彼等は愛があるうちは愛の完全透徹した力を信じてゐた。二人は子供のやうに遊び狂ひながら絶対に心は恋愛に充《みた》されてゐた。随分性質の悪い悪戯《いたずら》をし合つて怒つたり、苛《いじ》めたりし合つても、愛の揺ぎを感じなかつた。星の摂理を信じ、互ひの性質の自然を尊敬し合つてゐるものには、疑ひだの不平といふものを挟む必要がなかつた。さういふものを挟む必要が来た時は、もうその星の司《つかさど》る運命は終つたので、彼等は次の星の運命の支配の下に引取られてゐるのだつた。そこでまた彼等は彼等の生命を一ぱいに張り切つた次の生活が始められる。
 僅《わず》か七八夜の僅かな話のうちに僕は判りました。あなたは愛だの好意だのに対して素直で無条件に受容れられさうな理想家風の女性らしいですね。僕の直観に従へば、あなたは僕の考へてゐる恋愛論に共鳴が出来る方らしいですね。
 この夏の七八夜あなたとここで話したメモリーは僕の一生のうちの最も好いメモリーになりさうです。こんなこと云つて失礼だつたら許して下さい。あなたは静間君と結婚なさつても僕はあなたの特異性を貰《もら》つたやうな気がします」
「私の特異性つてものがございませうか。」
「あなたの特異性を強調していふなら、あなたは純潔な処女のまゝ受胎せよといつたら、その気になる方らしいですかな……はははは……。」
「…………。」
 突然牧瀬はつか/\立つて行つて、今までの話題に関《かかわら》せぬやうな、またその続きのやうにも、池の渚《なぎさ》に祈る人のやうに跪《ひざ
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