けた程の潤《うる》みを持つてゐた。
「あゝいゝ気持ち」
歳子は喰べても喰べてもうまくだけあつて、少しも腹に溜まらない飲食物に味《あじわ》ひ耽《ふけ》るやうについさう云つた。
「まだ、少女のときのやうに眠くなりませんかね。」
牧瀬は横にしてゐた体を悠々と立て直しながら、いくらか揶揄《からか》ひ気味に訊《き》いた。七八夜の間に歳子は今までの生涯の体験やら感想やらを識らず知らず彼に話してゐた。
「眠くなつちやゐられないほどいゝ気持ちよ。それとも眼が覚めてゐて眠つてゐると同じやうな気持ちなのかも知れない。」
「うまいこと云ふ」と呟《つぶや》きながら笑つて牧瀬は、すこし歳子に躪《にじ》り寄り、籐《とう》で荒く編んだ食物|籠《かご》の中の食物と食器を掻《か》き廻した。
「喉が渇きませんか。今夜はこれをあがつてご覧なさい。おいしいですよ。」
牧瀬は月にきら/\光らせながら魔法|罎《びん》からコツプへ液汁をなみ/\と注いだ。
歳子がそのコツプを月にさしつけて、透《すか》してゐると、牧瀬は「水晶|石榴《ざくろ》のシロツプです。シロツプでは上品な部ですね。」と云つた。
それから彼は不器用にパパイヤを切つて小皿に載せ、レモンを絞つてかけてから、匙《さじ》と一緒に差出した。藐姑射山《はこやのやま》に住むといふ神女《しんにょ》の飲みさうな冷たく幽邃《ゆうすい》な匂ひのするコツプの液汁を飲み、情熱の甘さを植物性にしたやうな果肉を掬《すく》つて喰べてゐると、歳子はこころがいよ/\楽しくなつた。蚤《のみ》の喰つたあとほどの人恋しさの物憎い痒《かゆ》みが、ぽちりと心の面に浮いた。牧瀬のスポーツシヤツの体からは、半人半獣のやうな健やかな感触が夜気に伝つて来た。
森から射上げられるやうな鳥の影が見えて、「きや/\」といふ鳴声がした。梟《ふくろう》に脅《おど》かされた五位鷺《ごいさぎ》だと牧瀬はいつた。歳子の襲はれさうになる恋愛的な気持ちを防ぐ本能が、かの女にぶる/\と身慄《みぶる》ひをさして、その気持ちを振り落さした。
東京の中にこんな山の窪地《くぼち》のやうに思はれるところがあるとは、歳子は牧瀬に誘はれて、この庭へ来るまで想像しても見なかつた。ここは三四代前からの牧瀬の邸《やしき》で、隣接する歳子の兄の家の敷地も昔はこの邸内になつてゐた。昔この辺は全く江戸の田舎《いなか》で、狐《きつね》
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