岡本一平論
――親の前で祈祷
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)面白い画《え》を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其《その》他|独歩《どっぽ》とか
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いい[#「いい」に傍点]気
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「あなたのお宅の御主人は、面白い画《え》をお描《か》きになりますね。嘸《さぞ》おうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。」
この様《よう》なことを私に向《むか》って云《い》う人が時々あります。
そんな時私は、
「ええ、いいえ、そうでもありませんけど。」などと表面、あいまいな返事をして置きますが、心のなかでは、何だかその人が、大変見当違いなことを云って居《い》る様な気がします。もちろん、私の家にも面白い時も賑《にぎ》やかな折も随分《ずいぶん》あるにはあります。
けれど、主人一平氏は家庭に於《おい》て、平常、大方《おおかた》無口で、沈鬱《ちんうつ》な顔をして居ます。この沈鬱は氏が生来《せいらい》持つ現世に対する虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
以前、この氏の虚無思想は、氏の無頼《ぶらい》な遊蕩《ゆうとう》的生活となって表われ、それに伴って氏はかなり利己的でもありました。
それゆえに氏は、親同胞にも見放され、妻にも愛の叛逆を企《くわだ》てられ、随分、苦《にが》い辛《つら》い目のかぎりを見ました。
その頃の氏の愛読書は、三馬《さんば》や緑雨《りょくう》のものが主で、其《その》他|独歩《どっぽ》とか漱石《そうせき》氏とかのものも読んで居た様です。
酒をのむにしても、一升《いっしょう》以上、煙草《たばこ》を喫《す》えば、一日に刺戟《しげき》の強い巻煙草《まきたばこ》の箱を三つ四つも明けるという風《ふう》で、凡《すべ》て、徹底的に嗜好物《しこうぶつ》などにも耽《おぼ》れて行くという方でした。
食味《しょくみ》なども、下町式の粋《いき》を好むと同時に、また無茶《むちゃ》な悪食《あくじき》、間食家《かんしょくか》でもありました。
仕事は、昼よりも夜に捗《はかど》るらしく、徹夜などは殆《ほとん》ど毎夜続いた位《くらい》です。昼は大方《おおかた》眠るか外出して居《い》るかでした。
しかしそうした放埒《ほうらつ》な、利己的な生活のなかにも、氏には愛すべき善良さがあり、尊敬すべき或《あ》る品位が認められました。
四五年以来、氏はすっかり、宗教の信仰者になってしまいました。
始めは、熱心なキリスト教信者でした。しかし、氏はトルストイなどの感化から、教会や牧師というものに、接近はしませんでした。氏は、一度信ずるや、自分の本業などは忘れて、只管《ひたすら》深く、その方へ這入《はい》って行きました。氏の愛読書は、聖書と、東西の聖者の著書や、宗教的文学書と変《かわ》りました。同時にあれほどの大酒《おおざけ》も、喫煙もすっかりやめて、氏の遊蕩《ゆうとう》無頼《ぶらい》な生活は、日夜|祈祷《きとう》の生活と激変してしまいました。
その頃の氏の態度は、丁度《ちょうど》生《うま》れて始めて、自分の人生の上に、一大|宝玉《ほうぎょく》でも見付け出した様《よう》な無上の歓喜《かんき》に熱狂して居ました。キリストの名を親しい友か兄の様に呼び、なつかしんで居ました。或《ある》時長い間|往来《おうらい》の杜絶《とだ》えて居た両親の家に行き、突然|跪《ひざまず》いて、大|真面目《まじめ》に両親の前で祈祷したりして、両親を却《かえ》って驚かしたこともありました。また誰かに貰《もら》って来たローマ旧教《カトリック》の僧の首に掛《か》け古された様な連珠《れんじゅ》に十字架上のクリストの像の小さなブロンズの懸《かか》ったのを肌へ着けたりして居ました。
氏の無邪気な利己主義が、痛ましい程《ほど》愛他《あいた》的傾向になり初めました。
やがて、氏は大乗《だいじょう》仏教をも、味覚しました、茲《ここ》にもまた、氏の歓喜的|飛躍《ひやく》の著《いちじ》るしさを見ました。その後とて、決してキリスト教から遠《とおざ》かろうとはしませんけれど、氏の元来《がんらい》が、キリスト教より、仏教の道を辿《たど》るに適して居ないかと思われる程、近頃の氏の仏教|修業《しゅぎょう》が、いかにも氏に相応《ふさわ》しく見受けられます。
氏は毎朝、六時に起きて、家族と共に朝飯前に、静座《せいざ》して聖書と仏典《ぶってん》の研究を交《かわ》る交《がわ》るいたして居《お》ります。
氏は、キリスト教も仏教も、極度の真理は同じだとの主張を持って居ります。随《したが》って二重に仕《つか》えるという観念もないのであります。ただ、目下《もっか》は、キリスト教に対しては、その教
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