理をやや研究的に、仏教には殆《ほとん》ど陶酔《とうすい》的状態に見うけられます。
現在に対する虚無《きょむ》の思想は、今尚《いまなお》氏を去りません。然《しか》し、氏は信仰を得て「永遠の生命」に対する希望を持つ様《よう》になりました。氏の表面は一層|沈潜《ちんせん》しましたが、底に光明《こうみょう》を宿して居《い》る為《ため》か、氏の顔には年と共に温和な、平静な相が拡《ひろ》がる様に見うけられます。暴食の癖《くせ》なども殆《ほとん》ど失《う》せたせいか、健康もずっと増し、二十|貫目《かんめ》近い体に米琉《よねりゅう》の昼丹前《ひるたんぜん》を無造作《むぞうさ》に着て、日向《ひなた》の椽《えん》などに小さい眼をおとなしくしばたたいて居る所などの氏は丁度《ちょうど》象かなどの様に見えます。この容態《ようだい》で氏は、家庭に於《おい》て家人《かじん》の些末《さまつ》な感情などから超然《ちょうぜん》として、自分の室《へや》にたてこもり勝《が》ちであります。その室は、毎朝氏の掃除にはなりますが、書籍や、作りかけの仕事などが、雑然《ざつぜん》混然《こんぜん》として居て一寸《ちょっと》足の踏み所も無《な》い様です。一隅《はじ》には、座蒲団《ざぶとん》を何枚も折りかさねた側に香立てを据《す》えた座禅《ざぜん》場があります。壁間《かべ》には、鳥羽《とば》僧正《そうじょう》の漫画《まんが》を仕立てた長い和装《わそう》の額が五枚|程《ほど》かけ連ねてあります。氏は近頃漫画として鳥羽僧正の画《え》をひどく愛好して居《い》る様《よう》です。
画などに対しても、氏は画面《えづら》そのものを愛すると同時に、その画家の伝記を知るということを非常に急ぎます。近頃の氏の傾向としては、西洋の宗教画家や東洋の高僧の遺墨《いぼく》などを当然愛好します。それも明るい貴族的なラファエルよりも、素朴な単純なミレーを好み、理智《りち》的に円満なダビンチよりも、悲哀と破綻《はたん》に終ったアンゼロを愛するという具合です。
近代の人ではアンリー・ルッソーの画を座右《ざゆう》にして居《い》ます。元来《がんらい》氏は、他に対して非常な寛容《かんよう》を持って居る方です。それは、時に他をいい[#「いい」に傍点]気にならしめる傾向にさえなるのではないかとあやぶまれます。
たとえば、
「あなたが先日あの方にあげた品ですね、あれをあの方は、こんな粗末《そまつ》なものを貰《もら》ったって何にもなりゃしないって蔭口《かげぐち》云《い》ってましたよ。」などと告《つ》げる第三者があるとします。
この場合氏は、
「折角《せっかく》やったのに失礼な。」
などとは云わずに、
「そうかい。いや、今度はひとつ、あいつの気に入る様《よう》なのをやることにしようよ。」と云った調子です。
また、他人が氏を侮蔑《ぶべつ》した折など、傍《はた》から、
「あなたはあんなに侮蔑されても分《わか》らないのですか。」など歯がゆがっても、
「分って居るさ、だけど向《むこ》うがいくらこっちを侮蔑したって、こっちの風袋《ふうたい》は減りも殖《ふ》えもしやしないからな。」と、平気に見えます。
また、男女間の妬情《とじょう》に氏は殆《ほとん》ど白痴《はくち》かと思われる位《くらい》です。が氏とて決して其《それ》を全然感じないのではない相《そう》ですが、それに就《つ》いて懸命《けんめい》になる先に氏は対者《あいて》に許容を持ち得るとのことです。一面から云《い》えば氏はあまり女性に哀惜《あいせき》を感ぜず、男女間の痴情《ちじょう》をひどく面倒《めんどう》がることに於《おい》て、まったく珍《めず》らしい程《ほど》の性格だと云えましょう。それ故《ゆえ》か、少青年期間に於《お》ける氏は、かなりな美貌《びぼう》の持主《もちぬし》であったにかかわらず、単に肉欲の対象以上あまり女性との深い恋愛関係などは持たなかった相です。熱烈な恋愛から成《な》った様に噂《うわさ》される氏の結婚の内容なども、実は、氏の妻が女性としてよりは、寧《むし》ろ「人」として氏のその時代の観賞《かんしょう》にかない、また彼女との或《ある》不思議な因縁《いんねん》あって偶然成ったに過ぎないと思われます。
「女の宜《よ》い処《ところ》を味わうには、それ以上の厭《いや》な処を多く嘗《な》めなければならない。」とは、女の価値をあまりみとめない氏の持説《じせつ》です。
氏は近来《きんらい》女の中でも殊《こと》に日本の芸者|及《およ》びそうした趣味の女を嫌う様《よう》です。
音楽なども長唄《ながうた》をのぞいては、むしろ日本のものより傑《すぐ》れた西洋音楽を好みます。
席亭《せきてい》へも以前は小《こ》さんなど好きでよく行きましたが、近頃は少しも参りません。芝居は仕事の関係
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