上、月に二つ三つはかかしませんが、男優では、仁左衛門《にざえもん》と鴈次郎《がんじろう》が好きな様《よう》です。
氏は家庭にあって、私憤《しふん》を露骨《ろこつ》に洩《も》らしたり、私情の為《ため》に怒って家族に当《あた》ったりしません。その点から見て、氏は自分を支配することの出来る理性家であるのでしょうか。たまたま家族の者に諫言《かんげん》でも加えるには、曾《かつ》て夏目漱石《なつめそうせき》氏の評された、氏の漫画の特色とする「苦々しくない皮肉」の味《あじわ》いを以《も》って徐《おもむ》ろに迫ります。それがまたなまじな小言《こごと》などよりどれほどか深く対者《あいて》の弱点を突くのです。また氏の家庭が氏の親しい知己《ちき》か友人の来訪に遇《あ》う時です、氏が氏の漫画一流の諷刺《ふうし》滑稽《こっけい》を続出|風発《ふうはつ》させるのは。そんな折の氏の家庭こそ平常とは打って変《かわ》って実に陽気で愉快《ゆかい》です。その間などにあって、氏に一味《ひとあじ》の「如才《じょさい》なさ」が添《そ》います。これは、決して、虚飾《きょしょく》や、阿諛《あゆ》からではなくて、如何《いか》なる場合にも他人に一縷《いちる》の逃げ路《みち》を与えて寛《くつ》ろがせるだけの余裕を、氏の善良性が氏から分泌《ぶんぴつ》させる自然の滋味《じみ》に外《ほか》ならないのです。
氏は、金銭にもどちらかと云《い》えば淡白《たんぱく》な方でしょう。少しまとまったお金の這入《はい》った折など一時に大金持《おおがねもち》になった様《よう》に喜びますけど、直《じ》きにまた、そんなものの存在も忘れ、時とすると、自分の新聞社から受ける月給の高さえ忘れて居《い》るという風《ふう》です。近頃、口腹《こうふく》が寡欲《かよく》になった為《ため》、以前の様に濫費《らんぴ》しません。
氏は、取り済《すま》した花蝶《かちょう》などより、妙に鈍重《どんじゅう》な奇形な、昆虫などに興味を持ちます。たとえば、庭の隅《すみ》から、ちょろちょろと走り出て人も居《い》ないのに妙《みょう》に、ひがんで、はにかんで、あわてて引き返す、トカゲとか、重い不恰好《ぶかっこう》な胴体を据《す》えて、まじまじとして居る、ひきがえる[#「ひきがえる」に傍点]とか。
人にしても、辞令《じれい》に巧《たくみ》な智識《ちしき》階級の狡猾《ずる》さはとりませんが、小供《こども》や、無智《むち》な者などに露骨《ろこつ》なワイルドな強欲《ごうよく》や姦計《かんけい》を見出《みいだ》す時、それこそ氏の、漫画的興味は活躍《かつやく》する様に見えます。氏の息《むすこ》のまれに見るいたずらっ子が、悪《あく》たれたり、あばれたりすればする程《ほど》、氏は愛情の三昧《ざんまい》に這入ります。
氏はなかなか画《え》の依頼主に世話をやかせます。仕事の仕上げは、催促《さいそく》の頻繁《ひんぱん》な方《かた》ほど早く間に合わせる様です。催促の頻繁な方|程《ほど》、自分の画を強要《きょうよう》される方であり、自分に因縁《いんねん》深い方であると思い極《き》めて、依頼の順序などはあまり頭に這入《はい》らぬらしいのです。
終《おわ》りに氏の近来《きんらい》の逸話《いつわ》を伝えます。
氏の家へ半月程前の夕刻|玄関《げんかん》稼《かせ》ぎの盗人が入りました。ふと気が付いた家人《かじん》は一勢《いっせい》に騒ぎ立てましたが、氏は逃げ行く盗人の後姿《うしろすがた》を見る位《くらい》にし乍《なが》ら突立《つった》ったまま一歩も追おうとはしませんでした。家人が詰問《きつもん》しますと、
氏は「だって、あれだけの冒険をしてやっと這入《はい》ったんだぜ、(盗人は三重の扉《とびら》を手際《てぎわ》よく明けて入りました)あれ位《くら》いの仕事じゃ(盗人は作りたての外套《がいとう》に帽子をとりました。)まだ手間《てま》に合うまいよ。逃がせ逃がせだ。」という調子です。氏のこの言葉は氏のその時の心理の一部を語るものでしょうが、一体《いったい》は氏は怖くて賊《ぞく》が追えなかったのです。氏は都会っ子的な上皮《うわべ》の強がりは大分ありますがなかなか憶病《おくびょう》でも気弱《きよわ》でもあります。氏が坐禅《ざぜん》の公案《こうあん》が通らなくて師に強く言われて家へ帰って来た時の顔など、いまにも泣き出し相《そう》な小児《こども》の様に悄気《しょげ》返《かえ》ったものです。以上|不備《ふび》乍《なが》ら課せられた紙数を漸《ようや》く埋めました。
底本:「愛よ、愛」メタローグ
1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1976(昭和51)年発行
※「椽《えん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしていま
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