には愛すべき善良さがあり、尊敬すべき或《あ》る品位が認められました。
 四五年以来、氏はすっかり、宗教の信仰者になってしまいました。
 始めは、熱心なキリスト教信者でした。しかし、氏はトルストイなどの感化から、教会や牧師というものに、接近はしませんでした。氏は、一度信ずるや、自分の本業などは忘れて、只管《ひたすら》深く、その方へ這入《はい》って行きました。氏の愛読書は、聖書と、東西の聖者の著書や、宗教的文学書と変《かわ》りました。同時にあれほどの大酒《おおざけ》も、喫煙もすっかりやめて、氏の遊蕩《ゆうとう》無頼《ぶらい》な生活は、日夜|祈祷《きとう》の生活と激変してしまいました。
 その頃の氏の態度は、丁度《ちょうど》生《うま》れて始めて、自分の人生の上に、一大|宝玉《ほうぎょく》でも見付け出した様《よう》な無上の歓喜《かんき》に熱狂して居ました。キリストの名を親しい友か兄の様に呼び、なつかしんで居ました。或《ある》時長い間|往来《おうらい》の杜絶《とだ》えて居た両親の家に行き、突然|跪《ひざまず》いて、大|真面目《まじめ》に両親の前で祈祷したりして、両親を却《かえ》って驚かしたこともありました。また誰かに貰《もら》って来たローマ旧教《カトリック》の僧の首に掛《か》け古された様な連珠《れんじゅ》に十字架上のクリストの像の小さなブロンズの懸《かか》ったのを肌へ着けたりして居ました。
 氏の無邪気な利己主義が、痛ましい程《ほど》愛他《あいた》的傾向になり初めました。
 やがて、氏は大乗《だいじょう》仏教をも、味覚しました、茲《ここ》にもまた、氏の歓喜的|飛躍《ひやく》の著《いちじ》るしさを見ました。その後とて、決してキリスト教から遠《とおざ》かろうとはしませんけれど、氏の元来《がんらい》が、キリスト教より、仏教の道を辿《たど》るに適して居ないかと思われる程、近頃の氏の仏教|修業《しゅぎょう》が、いかにも氏に相応《ふさわ》しく見受けられます。
 氏は毎朝、六時に起きて、家族と共に朝飯前に、静座《せいざ》して聖書と仏典《ぶってん》の研究を交《かわ》る交《がわ》るいたして居《お》ります。
 氏は、キリスト教も仏教も、極度の真理は同じだとの主張を持って居ります。随《したが》って二重に仕《つか》えるという観念もないのであります。ただ、目下《もっか》は、キリスト教に対しては、その教
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