一平氏に
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「みどり」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\な
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そちらのお座敷にはもうそろそろ西陽が射す頃で御座いませう? 鋭い斜光線の直射があなたのお机のわきの磨りガラスの窓障子へ光の閃端をうちあてると万遍なくお部屋の内部がオレンヂ色にあかるくなりますのね、そしてにわかに蒸暑くなるのでせう、あなたは急に汗を余計お出しになる。でもあなたは、それがどういふ理由からだか分らないやうに余計出れば、何の気なしに余計に拭くといつたやうな具合ひに、他愛もなくあなたの丸い細い顎のあたりを傍らの有合せのタホルで拭き取りながら、せつせと書きものゝお仕事をなさる――それからそんな時、あなたの窓の外の松のみどり[#「みどり」に傍点]が一層、穂先きをあざやかに立てゝそしてそのぱちぱちの線が、またあなたの窓の磨りガラスへ程よくぼけて、あなたの汗を拭きとつた黄白いなめらかな頬へ、それから柔かい素直な分け髪へほんのりと青く反射する――おや、わたくしは何を書き出したことでせう。
「芸術家の夫に与ふる」といふやうな手紙を書くつもりなのでしたが。
御免あそばせ、わたくしは今、こちらの部屋で(あなたのお部屋を背に一間の大床がどさりと部厚な銀砂塗りの壁で一面、ほとんどあなたのお部屋を隣国のやうにわたくしの部屋の彼方に仕切つてゐますのね)その原稿をどう書かうかと少しもてあましてゐるうちにくたびれてしまつて机へおしりをむけ背中を紫檀の机のわく[#「わく」に傍点]の彫ものゝ隆起へこりこり[#「こりこり」に傍点]と当てながら、足を、それでもこれはちやんと揃へて二本確実に前へ投げ出して居りますの。でも云ひわけではありませんが、そんなに醜い姿態とも自分では思ひませんの、投げ出したと云つても、その足は、ずつと長めに着た浴衣の裾が叮嚀に包んで居りますの、腰紐なしの着流しでもきちんと帯はしめて居りますから丸くまとまつてゐる膝の上に角のきちんとした半切原稿紙の一二枚はいだばかりの一冊を置いて、万年筆を片手にしながら思案して居りますの。
さて、何と書かう、非常にやさしいやうでむづかしい。
頭がまとまらないとちよつとのことにも気が散りますのね
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