。夕風がね、実は涼しいのこちらの座敷はね、でもさらさらとなどわたくしの袂はなびかないわ。そんな風流な姿態ではないの、私の袂はぶつきらぼうの元禄袖ですもの。
「まるで男の児のやうだな、上体が寂しいぢやないか。何かお飾り、そして帯はなるたけ赤いのが宜いね」
 外国へ行らしつてからあなたは随分派手好きにおなりになつた。今日はね紫水晶の耳環をして居るの。首かざりは襟に食ひ入る処へあせもが、あの金の細いクサリなりに出来てはいけませんから。それがね、その紫水晶の大粒な珠が、夕風にゆれたり、私が首を動かす毎に、ころころと両方の耳の下をかろくかはゆくうちますのよ。それが可愛ゆくつてわたし涙がにじむのよ。
 こんな私の姿態なんか書かなくても一つ家に居て、おとなり同志の部屋なのですものね。けどあなたには御存知ない、それを私は確実に知つて居ます、今日はあなたはまだ、しみじみわたくしにお逢ひになりません、一二度、廊下でお目にかゝつた、そして二人の向ひ合つた部屋の入口同志でも一二度ほんの一寸はお目にかゝつたけれど、今日はまつたくあなたは仕事屋さんで居らつしやるもの、私には、あなたが赤い私の帯なんか、男の児のやうな元禄袖なんか、まして耳環なんか決してお気にとまらないのをよく存じて居りますわ。そして、この私の存在すらも――えゝ、でも、それで結構だとおもひますの、馴れて居りますもの。
 けどやつぱり淋しいには淋しいの、ですから耳環の水晶のころころ[#「ころころ」に傍点]の可愛ゆいのまでに涙が出たりするのですわ。と云つてわたくしがそんな時あなたのお部屋へ這入つて行つて、
「パパ。」
 とでも呼んでごらん遊ばせ、あなたはペンの手をあつちむきのまゝ肩の処まで上げて、
「これこれ、Kachi 坊はこんな蒸暑い部屋へ来るのではありません。」
 で、御座いますもの。馴れて居りますわ、ひとりで居りますことには。
 しかし時々あなたは、すばらしく私のあなたにおなりになさいますのね、御自分で私の着物を見立てに銀座へ行らしつたり、おいしいものを喰べに連れてゐらしつたり、観音経のお講義をして、私の難問を解いて下さつたり、気に入つたポーズをさせてスケッチをとつたり、さういふことはまた得て世間に誇大に拡がり安いもので、いかにあなたの愛物でわたくしがあるかを云々し、まゝそこまでは宜いとして、それがために、私はその境遇にあまへ
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