苦い味が舌に孰《いず》れも魅力《みりょく》を恣《ほしいまま》にする。
午後七時になるとレストラントの扉《とびら》が一斉《いっせい》に開く。誰が決めたか知らない食道《しょくどう》法律が、この時までフランス人の胃腑《いのふ》に休息を命じている。
フランス人は世界中で一番食べ意地の張った国民である。一日の中で食事の時間を何より大切な時間と考えている。傍《はた》で見ていると、何とも云《い》えず幸福そうに見える。それは味覚の世界に陶酔《とうすい》している姿に見える。恐《おそ》らく大革命の騒ぎの最中《さなか》でも、世界大戦の混乱と動揺《どうよう》の中でも、食事の時だけはこういう態度を持ち続けたであろう。
巴里のレストラントを一軒一軒食べ歩くなら、半生かかっても全部|廻《まわ》れないと人は云っている。いくらか誇張《こちょう》的な言葉かとも聞《きこ》えるが、或《あるい》は本当かも知《し》れない。日本では震災後、東京に飲食店が夥《おびただ》しく殖《ふ》えたが、それは飲食店開業が一番手早くて、どうにかやって行けるからだと聞いた。然《しか》し巴里のレストラントの数は東京の比ではない。それは東京に於《お
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