異国食餌抄
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)小半時《こはんとき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)食欲|三昧《ざんまい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)くろずん[#「くろずん」に傍点]だ
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 夕食前の小半時《こはんとき》、巴里《パリ》のキャフェのテラスは特別に混雑する。一日の仕事が一段落《いちだんらく》ついて、今少しすれば食欲|三昧《ざんまい》の時が来る。それまでに心身の緊張をほぐし、徐《おもむ》ろに食欲に呼びかける時間なのだ。どのテーブルにもアペリチーフの杯《さかずき》を前にした男女が仲間とお喋《しゃべ》りするか、煙草《たばこ》の煙を輪に吹きながら往来《おうらい》を眺めたりしている。フランス人特有の身振《みぶり》の多い饒舌《じょうぜつ》の中にも、この時|許《ばか》りはどこかに長閑《のどか》さがある。アペリチーフは食欲を呼び覚《さ》ます酒――男は大抵《たいてい》エメラルド・グリーンのペルノーを、女は真紅《しんく》のベルモットを好む。新鮮な色彩が眼に、芳醇《ほうじゅん》な香が鼻に、ほろ苦い味が舌に孰《いず》れも魅力《みりょく》を恣《ほしいまま》にする。
 午後七時になるとレストラントの扉《とびら》が一斉《いっせい》に開く。誰が決めたか知らない食道《しょくどう》法律が、この時までフランス人の胃腑《いのふ》に休息を命じている。
 フランス人は世界中で一番食べ意地の張った国民である。一日の中で食事の時間を何より大切な時間と考えている。傍《はた》で見ていると、何とも云《い》えず幸福そうに見える。それは味覚の世界に陶酔《とうすい》している姿に見える。恐《おそ》らく大革命の騒ぎの最中《さなか》でも、世界大戦の混乱と動揺《どうよう》の中でも、食事の時だけはこういう態度を持ち続けたであろう。
 巴里のレストラントを一軒一軒食べ歩くなら、半生かかっても全部|廻《まわ》れないと人は云っている。いくらか誇張《こちょう》的な言葉かとも聞《きこ》えるが、或《あるい》は本当かも知《し》れない。日本では震災後、東京に飲食店が夥《おびただ》しく殖《ふ》えたが、それは飲食店開業が一番手早くて、どうにかやって行けるからだと聞いた。然《しか》し巴里のレストラントの数は東京の比ではない。それは東京に於《お
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