》けるような経済的理由からではなくて、もっと他に深い理由がありはしないだろうか。兎《と》に角《かく》中流以下のレストラントには必ず何人かの常客《じょうきゃく》がいて、毎日同じテーブルに同時間に同じ顔を見ることが出来《でき》る。私のような外国人でも二三日続けて行くと「あなたのナプキンを決めましょうか」と聞く。ナプキンを決めておけば食事|毎《ごと》にその洗濯代として二十五サンチームぐらいの小銭《こぜに》を支払わなくても済むからである。
ルクサンブルグ公園にある上院の正門の筋向《すじむか》いにあって、議場の討論に胃腑《いのふ》を空《から》にした上院議員の連中が自動車に乗る面倒もなく直《す》ぐ駈《か》けつけることの出来《でき》るレストラン・フォワイヨ、マデレンのくろずん[#「くろずん」に傍点]だ巨大な寺院《じいん》を背景として一日中自動車の洪水《こうずい》が渦巻《うずま》いているプラス・ド・マデレンの一隅《かたすみ》にクラシックな品位を保って慎《つつ》ましく存在するレストラン・ラルウ、そこから程《ほど》遠くないグラン・ブールヴァルの裏にある魚料理で名を売っているレストラン・プルニエール、セーヌ河を距《へだ》ててノートルダムの尖塔《せんとう》の見える鴨《かも》料理のツールダルジャン等一流の料理屋から、テーブルの脚《あし》が妙にガタつき縁《ふち》のかけたちぐはぐの皿に曲《まが》ったフォークで一食五フラン(約四十銭)ぐらいの安料理を食べさせる場末《ばすえ》のレストラントまで数えたてたら、巴里《パリ》のレストラントは一体《いったい》何千軒あるか判《わか》らない。
牛の脊髄《せきずい》のスープと云《い》ったような食通《しょくつう》を無上《むじょう》に喜ばせる洒落《しゃれ》た種類の料理を食べさせる一流の料理店から葱《ねぎ》のスープを食べさせる安料理屋に至るまで、巴里の料理は値段相当のうまさを持っている。たとえ、一皿二フランの肉の料理でも、十分に食欲と味覚は満足させてくれる。
所謂《いわゆる》美食に飽《あ》きた食通がうまい[#「うまい」に傍点]ものを探すのは中流の料理屋に於《おい》てである。巴里の料理屋にはどこにも必ずその家の特別料理《スペシャリテ》と称するものが二三種類ある。美食探険家はこういう中流料理屋のスペシャリテの中に思わぬ味を探し当てることがあるという。
巴里に行った人
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