ほ、そこがつまり虫のせい[#「せい」に傍点]だろうか」
老侍女「でも、おかしゅうございますねえ、そんなに此の世の美しさに牽き付けられなさるあなた様が、始終、阿弥陀《あみだ》さまを拝んでいらっしゃいますとは」
式部(合掌して独言のように)「迎えの雲、この世の岸、たゆたう渚《なぎさ》に、あわれにも懐《なつか》しきわたしの浄土があるのだ。人の世の果敢無《はかな》さ、久遠《くおん》の涅槃《ねはん》、その架け橋に、わたしは奇しくも憩《いこ》い度い……さあ、もう何も言わないでね。だいぶ暗くなったから、燈でもつけて、それからお斎《とき》でもお隣の聖におあげなさい」
老侍女「はい」(老侍女は何の事とも判らず阿弥陀仏に一礼し燈台《あかり》を式部の机に備え、それから斎を用意し隣へ持って行く。日はとっぷり暮れ、鉦磬《しょうけい》と虫の声、式部は静かに筆を走らす。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――幕――



底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「巴里祭」青木書房
   1938(昭和13)年11月25日発行
初出:「
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング