岡本かの子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逢《あ》ふ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)右|膝《ひざ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「にじむ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さば/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

 その人にまた逢《あ》ふまでは、とても重苦しくて気骨《きぼね》の折れる人、もう滅多《めった》には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼《まちか》ねて頂きます。人間の寿命に相応《ふさ》はしい、嫁入り、子育て、老先《おいさき》の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔《めど》に糸はたやすく通ります。畳ざはりが素足の裏にさら/\と気持よく触れます。黄菊《きぎく》などを買つて来て花器に活《い》けます。
 その人にまた逢ふときには、何だか予感といふやうなものがございます。ふと、たゞこれだけの月日、たゞこれだけの自分ではといふやうな不満が覚えられて莫迦々々《ばかばか》しい気持になりかけます。けれども思へばその気持もまた莫迦らしく、かうして互ひ違ひに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちやうど闇の夜空のネオンでせうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せはしないことです。するうち屹度《きっと》その人に逢《あ》ふ機会が出て来るのでございます。
 出がけのときは、やれ/\、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢つて見る眼には思ひの外《ほか》、あつさりして白いものゝ感じの人でございます。たゞそれに濡《ぬ》れ濡れした淡い青味の感じが梨《なし》の花片《はなびら》のやうに色をさしてるのが私にはきつと邪魔になるのでございませう。
 その人は体格のよい身体をしやんと立てゝ椅子《いす》に腰をかけ、右|膝《ひざ》を折り曲げてゐます、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でてゐます。普通には殆《ほとん》ど聞えません。私は母から届けるやう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼《もくれい》して受取つて傍の机の上に置きます。そして手で指図《さしず》して私をちやうどその
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング