人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言ひません。細眼にした間から穏かな瞳をしづかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
その人の中には確《たしか》に自分も融け込まねばならぬ川が流れてゐる。それをだん/\迫つて感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で慥《こしら》へて、その表面にヱナメルを塗り、指で弾《はじ》くとぱか/\と味気ない音のする皮膚で以て急に鎧《よろ》はれ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまはりを探し歩くやうです。苦しく切ない稲妻《いなずま》がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところ/″\皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒《あわつぶ》が立ちます。戸惑《とまど》つた私の魂はとき/″\その人の唇とか額《ひたい》とかに向つても打ち当つて行くやうです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉《せみ》のやうに私の魂は滑り落ちてはにじむ[#「にじむ」に傍点]やうな声で鳴くやうです。
私は苦しみに堪へ兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で咏《つぶや》きます。けれどもその人は相変らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝ殆《ほとん》ど音の聞えぬ楽器を奏でてゐます。私の魂は最後に、その人の胸元に向つて牙《きば》を立てます。噛《か》み破ります。
ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合つたやうです。川はもう見えません。私自身が川になつたのでせうか。何だか私には逞《たく》ましい力が漲《みなぎ》り、野のどこへでも好き放題に流れて行けさうです。明るくて強い匂ひが衝《つ》き上げるやうな野です。もう私の考へには嫁入り苦労も老先《おいさ》きもないのです。
いま男の誰でもが私に触つたら、ぢりゝと焼け失せて灰になりませう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘《まま》、しづかに楽器を奏でてゐます。ただ今度の私は、大仏の中に入つた見物人のやうに、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのやうな楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。
しかし私に取つてかういふ奇蹟《きせき》的な存在の人が、世間では私
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