しばらく楽な新味を貪《むさぼ》ろうとする。この錯覚の世界もまた当面に直視するとき立派な事実の認識として価値を新に盛って来るのだが、夫人はそれ程骨を折らない。ただ、イージーゴーイングに感覚がトリックにかかるのを弄《もてあそ》ぶだけだ。夫人の興味は直き次に移って犬のドクトルが部屋に呼び付けられた。老人の獣医は毎金曜、狆《ちん》の歯を磨きに午前中だけ通って来る。今も玄関の側部屋で仕事にかかって居たのだ。
老人が狆の健康状態の報告に入ろうとするのを押えて夫人は云った。
「珈琲を一つ交際《つきあ》って下さらない?」
老人は夫人に珈琲と云って与えられた椀の中のものをすぐ酒と悟った。元来酒好きの老人なのでそのまま居坐っていかにも浸み込むように飲む。夫人のトリックにかかって「酒か珈琲か」と飲み惑ってあわてふためき夫人の笑う材料になって呉れない。
「驚きましたな。驚きましたな」
と口では云うがそれがただ相槌《あいづち》のお世辞に過ぎ無い事は夫人にもよく判る。しまった、と夫人は想う。ドクトルはやはり寒い側部屋で酒に餓えさせ乍ら獣の黄色い牙を磨かせて置く方が興味価値があったのだのに。夫人はこれほどうま
前へ
次へ
全15ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング