前から現代まで持続している豪家の子女達がその豊富な物資に伴う伝統的教習に薫育されて、随分知識も感覚も発達して居る。だが結局その知識や教習がやがてそれ等自身を逆に批判し返す程の発達を遂げた。然《しか》しもともと受けた薫育の中枢はやはり伝統的教習であるから、いくら時代に刺戟されても断然新らしくなり切れもしない極端に発達した感覚は当惑し彷徨し、疲労する。やがていくらかの麻痺状態にまで達して何を見ても、何に接しても全部感銘し切れない。
「これ、好いわね、But(だけれど……)」
「そう、それも好いわね、But(だけれど……)」つまり But の数限りない連続が彼女等の生活の行進体の大部分なのだ。
 [#ここから横組み]Grenadine《グレナジン》※[#3分の1、1−7−88] Drygin《ドライジン》※[#3分の2、1−7−89][#ここで横組み終わり]
 玉子の白味一つ。
 今、スワンソン夫人に命令された給仕男は鸚鵡《おうむ》返しにその通り復誦する。これは朝飯の「カクテール」と呼ばれているものであって、美髪師「マダム・H」のサロンから夫人が覚えて来たものである。「美髪師マダム・H」は顧客の引付策としてスワンソン夫人始めロンドンの But クラス婦人達を招いて毎週一回カクテール・パーテーを催す。それにはサヴォイ・ホテルの酒場主任《テンダア》が出張して世界の新流行のカクテールを混合筒から振り出して紹介する。「朝のカクテール」は夫人が其処で今まで覚えたなかで気に入ったものの一種だ。
 だが、給仕の男が恭《うやうや》しくグラスを捧《ささ》げて来た時にはもう夫人の気が変って居る。
 そうだ。カフェ・カクテール。今朝はあれをやって見なくちゃ。
 給仕は姿勢を取り直してまた夫人の命令を復誦する。
 玉子の黄味一つ。茶匙に砂糖一ぱい、ポートワイン三分の一。ブランデイ六分の一。ダッチ・キュウラソオ小グラス一ぱい。
 今度給仕が持って来たものをみると成程カフェ・カクテールとはよく名を付けたものだ。これは熱帯国の木の実が焙じられた時、うめき出す濃情な苦渋の色そっくりだ。酒であって珈琲《コーヒー》、珈琲であって酒なのだ。夫人は霧の朝の蒼暗い光線にグラスを浸してしばらく錯覚を楽しむ。二つの認識に疲れ飽き他の認識を開拓する勇気を欠いて居る But 階級の人々はこの両者が交感する屈折光線の世界にしばらく楽な新味を貪《むさぼ》ろうとする。この錯覚の世界もまた当面に直視するとき立派な事実の認識として価値を新に盛って来るのだが、夫人はそれ程骨を折らない。ただ、イージーゴーイングに感覚がトリックにかかるのを弄《もてあそ》ぶだけだ。夫人の興味は直き次に移って犬のドクトルが部屋に呼び付けられた。老人の獣医は毎金曜、狆《ちん》の歯を磨きに午前中だけ通って来る。今も玄関の側部屋で仕事にかかって居たのだ。
 老人が狆の健康状態の報告に入ろうとするのを押えて夫人は云った。
「珈琲を一つ交際《つきあ》って下さらない?」
 老人は夫人に珈琲と云って与えられた椀の中のものをすぐ酒と悟った。元来酒好きの老人なのでそのまま居坐っていかにも浸み込むように飲む。夫人のトリックにかかって「酒か珈琲か」と飲み惑ってあわてふためき夫人の笑う材料になって呉れない。
「驚きましたな。驚きましたな」
 と口では云うがそれがただ相槌《あいづち》のお世辞に過ぎ無い事は夫人にもよく判る。しまった、と夫人は想う。ドクトルはやはり寒い側部屋で酒に餓えさせ乍ら獣の黄色い牙を磨かせて置く方が興味価値があったのだのに。夫人はこれほどうまそうに飲む老人の嗜慾に嫉妬《ゼラシー》を感じた。
 生々しい膝節を出してスカートのような赤縞のケウトを腰につけたスコットランド服の美貌の門番《ガードマン》が銀盆の上に沢山の「平凡」を運んで来た。
 答礼の花束。
 レセプションの招待状。
 慈善病院の資金窮乏の訴え。
 土耳古《トルコ》風呂の新築披露。
 コナンドイル未亡人からとどいた神秘主義実験報告のパンフレット。
 国際聯盟婦人会の幹事改選予選会報。等、ほかにまた一通夫人がしばらく手にとって眺めて居たものは古着払下げの勧誘広告だ。夫人の感情はこれに少し局部的の衝撃をうけた。
 ――失礼な――だがためしに売って見ようか――だが――。
 午前十一時半。ふらんす風の正式の「昼の朝飯」前に夫人は居間附応接室で彼女の夫と朝の挨拶を交す。
 モーニングの夫は眉を動かして、
「結構《グロリアス》な天気じゃないか、奥」
 そして彼はあらゆる問題に五分から二十分間位討論する用意は持って居る。「イギリスがもし注意を欠くなら」という前提で。だが、それから永くなるとぐっと反身《そりみ》になって、
「むろん、わしよりもそちらがこの問題についてはセンシブルな意
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