見を持たるる筈だが」
 と、微笑にまぎらす。夫人もまた、たった一つの方法で夫の一日の機嫌をよくして置く。それは彼の名声に関して話すことだ。
「××伯爵がたいへんあなたの事をよく云って居られました」
 この一言の注射はスワンソン氏の上機嫌を二十四時間保たしめる。
 夫人は後妻だ。彼女が前に経験した初婚の年齢の均衡の取れた夫婦関係では夫が青臭く匂って張合いが持てなかったが、今の「若く美しき後妻」の位置とても彼女を緊張させは仕無い。ただ割合いに煩《わずら》わされず勝手な懐疑と孤独とを自分に侍《はべ》らせて居られるのを取柄として居る。
 彼女はなぜスコッチ服の若い門番に眼をつけ無いか。ふしだら[#「ふしだら」に傍点]もふしだら[#「ふしだら」に傍点]らしいのはアカデミック小説の履行で何の刺戟も無い。彼女はこの頃貞操という事にエロチシズムを感じて居る。
 卓上には昨夜彼女が見なかった夕刊新聞が今日の朝刊と一緒に載っている。それには、アインシュタインを叮嚀にもてなして居るバアナアド・ショーの写真が出ている。彼女はこころもち夫の方へ首を差し出しその写真を見せながら不服そうに云った。
「ねえ、あなた。ショーのおやじは、あの空威張りの傲慢の時の方が似合いますね。アインシュタインがいくら偉大な学者だって、もともとユダヤ種のドイツ人じゃありませんか……(あとは独言のように)でもショーだって洗って見ればアイリッシュだから妙に如才ない処もあるんだわ」
 スワンソン氏はタイムスの厖大《ぼうだい》な紙量の上に遠視眼鏡を置き、霧の朝の薄暗い室内を明るくする為に卓上電燈のスイッチを捻った。夫人が次にめくったD紙の社会面にはこんな記事が簡単に載っていた。
 ××街の大劇場○○座が今度経営困難に陥り米国の富豪某氏所属のデパートとなった。旧劇場附属の人員は此の際大方採用されて、その新百貨店の使用人となった。なかに旧劇場で案内係をして居た一人の娘の親が英人の娘として米人の使用人に変ることは英国の不節操であると同時に米国への屈従であると云って断然許さなかった。新職業に就いた多くの友人に取残された娘は気が違って自殺した。
 夫人は一瞬この記事の小心な娘気を可憐に思った。そして近頃ますますロンドンに侵入する米国物資の跳梁《ちょうりょう》を憎んだ。が、次の瞬間米国への聯想が夫人の心を広々と明るくしていた。夫人はこの夏の休暇にはサウザンプトン港から新造の米船に乗りニューヨークに上陸してはるばる北アメリカを横断する計劃が良人と約束してある。ロンドンよりもずっと清新なニューヨーク街の雑沓や速力の早い汽車の南側から眺める米大陸の深林の緑が夫人の空想のなかに浸み込む。だがそれもやがて夫人の頭の倦怠素ににぶく溶け込んで行って夫人はかすかな朝の眠気に誘われはじめた。



底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「世界に摘む花」実業之日本社
   1936(昭和11)年発行
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング