申出でだ。
もっと既にこの時世界の不況は大英の財界にも押し寄せて来て、彼の顧問会社の脈搏不整はこの偉《すぐ》れた財政家に騎士時代の革財布を丹念に繕《つくろ》うような閑道楽を許さなくなってもいた。この時スワンソン氏の財政状態も即刻スワンソン氏の命令を聞く現金はげっそりと減ってしまっていた。ただ、幸といおうか、彼の蘇格蘭の領地と公園小路の古い邸とは彼のものとしてあまりに有名で、非実用的なのが障《さわ》りで融通に対する利用性を欠いていた為め彼が容易に現金に換えようとする重宝には役立たなかった。そして彼も元来は思慮ある英国紳士である。或る過程までの失敗が却って彼の打算と反省を明確に呼び起こした。彼は或時期からフランス人のブローカー等を断然しりぞけてしまった。彼は残金と消費額とを厳重に精算した。そして先ず彼の相続税を予算して彼の死後の処まできめてしまった。これも彼の最後の名望慾が案出したのである。彼が死んだ時、息子が相続税を現金で支払えない代償に領地の半分を県の公園に引取って貰う相談を彼のいわゆる下品な労働党の政府に持ち出したり、邸の競売を写真入りの広告でタイムスへ載せたりしたらもうおしまいだ。折角生前あれほど骨折って欧米に売り込んだ彼の家門の誉《ほま》れも水の泡だ。
これ程のスワンソン氏の物質的起伏も彼の愛妻である美貌のスワンソン夫人の消費生活にはさしたる波動を及ぼさない。英国紳士たる体面はその愛妻に対してさえ容易に崩壊することを許さない。かくて、スワンソン夫人の生活はいつも平和で甘美で退屈だ。
今、繻子《しゅす》の寝床の介殻《かいがら》から抜けたスワンソン夫人の肉体は軽い空気の中に出てうす白く膨張する。彼女は逃げた肉体の重心を追う格好で部屋の左側に沿い室内靴をじゅうたん[#「じゅうたん」に傍点]にすりつける。
およそ強奪したものはみな美しいとは英国の貴族の祖先が近東を荒し廻った海賊船時代からの経験である。スワンソン夫人のピジャマはオックスフォード街の××高級品店から売出し前に強奪した自然絹《ピューアシルク》だ。その代り××高級品店はスワンソン夫人から定価以上の小切手を強奪した。この二重の強奪が行われているスワンソン夫人のピジャマに二重の魔美が潜んでいるのは合理的だ。ライラック花模様がペルシャの鷹狩の若衆に絡んで光沢の波に漂っている。
夫人は部屋のカーテンを順々に
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