び》を喰べに行きますの、オンフルールの、サン・シメオンへ。
――承知しました、マドモアゼル。
――あら、あたし独《ひとり》でですわ。
――妙ですね。浮気?
――いいえ、たった一人でセーヌ河口が見度《みた》いのですわ。
――ホホウ、ヒステリーの起った風景画家というところですな。では晩まで遠慮しましょう。
――その代り、晩は十時にシロで晩御飯。それから賭博場《カジノ》のバカラへ行きましょう。
[#ここで字下げ終わり]
 イベットは老紳士との会話で小田島に知らせるランデヴウの場所(サン・シメオン)を聞かせた。小田島は二人が二階へ昇って仕舞ってから帳場係に聞いた。
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――あの紳士は誰だい。
――ドーヴィル市長、ムッシュウ・マシップ(仮名)です。
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 小田島はいつぞや巴里で彼女がほのめかした通り、イベットは本当にスペイン国事探偵として、このドーヴィルに喰い込んで居るのかと、内心驚いた。

       二

 太陽が鮮《あざやか》に初秋の朝を燦《きらめ》かし始めた。ドーヴィル市の屋根が並べた赤、緑、灰色の鱗《うろこ》を動かして来た。その中に突立つ破風《はふ》造りの劇場、寺の尖塔(上べは綺麗ずくめで実は罪悪ばかりの素材で作り上げたこの市に寺のあるのが彼には一寸《ちょっと》おかしかった。)果樹園に取巻かれて、土の赤肌をポカンと開けて居るポロ競技場もかすかに見える。眼の前の建築群と建築群との狭い間から斜の光線に掬《すく》い上げられ花園のスカートを着けた賭博場の白い建物や、大西洋の水面の切端の遠望が、小田島の向うホテル五階の窓框《まどわく》の高さに止る。プラタナスの並樹で縁取った海岸の散歩道には、もう蟻《あり》ほどの大きさに朝の乗馬連が往き来している。その中に人を小馬鹿にした様にカプユルタンの王様が女と一緒に象に乗って居るのが大粒に見える。
 疲れが深い眠《ねむり》を引き、先刻ひと寝入りで寝足りた小田島は再びベッドに横になっても眠くはなかった。で、巴里から持って来た社交界雑誌ブウルヴァルジエを展《ひろ》げた。彼は今までこの雑誌を見たこともなかったが巴里の社交界が移動して来た今日のドーヴィルは、この雑誌で研究するに限ると思ったので買って来た。ページを繰ると先《ま》ず仏蘭西《フランス》の自動車王シトロエンが、この地へ大賭博に来て居ること。フランス華族社会切っての伊達者《だてもの》ボニ侯爵がアメリカの金持寡婦の依頼で、この土地で欧洲名門救済協会の組織を協議したこと等の記事が眼につく――だしぬけに部屋の扉が開いた。
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――御免なさい。あたし、お部屋を間違えたのよ。
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 薔薇《ばら》色に黄の光沢が滑る部屋着の女が入って来た扉口を素早く締め彼に近づき乍《なが》ら早口に云う。
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――あたし、東洋の方、大変、好き。この儘《まま》ここに居さしてね。
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 小田島は急いでベッドから半身起し、手を振って云った。
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――駄目ですよ。僕は真面目な旅行者ですよ。
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 女は、案外思い切りよくまた扉口へ戻って、云った。
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――あんた、もし相手が欲しかったら、四百九十三号室に居るわたしを呼んでね。あたし本当はあなた方の相手するような廉《やす》い女じゃ無いんだけど、すっかりこれでしょう。
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 女は何の飾も無くなった素の手首を見せて
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――だからあんたから阿片《アヘン》でも貰《もら》って、やけに呑んで見ようと思って。
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 小田島は苦笑し乍ら云った。
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――生憎《あいにく》と僕は支那人じゃ無いのです。
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 だが、女はまだ疑って居るようだ。
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――この土地にはね、死ぬ処を、アッシュや阿片で止めた女が沢山居るのよ。
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       三

 太陽、大河口。かもめ――ドーヴィルから適当な距離のオンフルール海岸は、ドーヴィル賭博人の敗北の深傷《ふかで》や遊楽者達の激しい日夜の享楽から受ける炎症を癒《いや》しに行く静涼な土地だ。
 レストラン、サン・シメオンの野天のテーブルで小海老を小田島に剥《は》がさせ乍ら、イベットは長い睫《まつげ》を昼の光線に煙らせて、セーヌの河口を眺めて居る。彼女が斯《こ》うしてじっとして居る時は、物を眺めて居るのか、何か考えて居るのか小
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