行って仕舞うだろう――小田島はまたそっと部屋へ帰り、急いで平常着と着更えて足早に外へ出た。曇った空は霧のような雨を降らして蒸暑い。ユーゼーン・コルナッシュ通りの群集は並木の緑と一緒に磨硝子《すりガラス》のような気体のなかに収まって賑《にぎやか》な影をぼかして居る。乗馬時間で通るものは馬が多い。彼は一々馬に眼をつけたがイベットは見えない。殆ど前半身を宙に伸び上げ細い前足で空を蹴《けっ》て居る欧洲一の名馬、エピナールに乗り、その持主、パウル・ウエルトハイマーが通ると人々は息を止め、霧の中で盛な拍手が起った。
浜には今年流行の背中の下まで割れた海水着の娘や腰だけ覆《おお》って全裸の青年達が浪に抱きつき叩《たた》かれ倒され、遠くから見る西洋人の肌は剥《む》き立てのバナナのようにういういしい――小田島は突然顔を赫《あか》らめた。彼は矢張りイベットの肉体を結局は想い続けて居たのでは無いか――いつも自分の心理を突き詰めて行くのに卑怯で気弱な彼はまたしても首を強く左右へ振った。そして何かに逆らうような気勢でさっさと歩き出した。
遊覧客相手の贅沢品屋は防火扉をおろしてまだ深々と眠って居た。扉に白いチョークで、西班牙《スペイン》皇帝の似顔絵が拙《つたな》く楽書きされて居る。自国の乱れた政情の間を潜って、時々陛下は茲へ遊びに来られた。陛下の古典風な顔はフランスの何処にでも人気があった。衣裳屋のショーウインドウのマネキン人形はまだ消えない朝の電燈の下で今年の秋の流行はペルシャ野羊《やぎ》であることを使嗾《しそう》して居る。霧雨はいつの間にか晴れて、道は秋草の寝乱れて居る赫土の坂を上り、ポロ競技場が彼の眼の前に展開された。
イギリス、対アメリカのポロ最終競技が今日午後にある。アメリカ選手達の予備練習の馬群が浪の泡立つ様にさっと寄ってはさっと引返す間に、緑の縞《しま》や薄桃色のユニフォームが、ちらちらする。その馬群が投げられた球を追って道端の柵までどっと押し寄せる気配いを受けて、高く嘶《いなな》いてダクを踏んだ馬が一つ、小田島の行手の道の接骨木《にわとこ》の蔭に居る。彼が注意深く接骨木の根の叢《くさむら》を廻って行くと、その馬の轡《くつわ》を取って一人の男が呆然と停って居る。その男は、前夜小田島がカジノの切符台に納って居るのを見た勘定係の四十男だった。馬は華奢《きゃしゃ》な白馬で、女鞍が置いてあり、鞍にリボンなど着いて居るのを見ると、ひょっとしたらイベットの馬かも知れない。イベットがこの男にこんな役目を勤めさせるほど、何時の間に手馴着《てなず》けたものかも知れない、と小田島は直覚的に考えた。
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――お早う。これはマドモアゼル・イベットの馬じゃ無いですか。マドモアゼル・イベットは今、何処に居られますか。
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男は別に意外な顔もせず答えた。
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――ほう、あなたはマドモアゼル・イベットを御存じですか。マドモアゼルは今、其処《そこ》の崖を降りてお寺へ行って居ます。坊さんに知り合いがあるので賽銭の上り高を聞くのだと仰《おっしゃ》ってでした。あの娘さんは実に熱心な社会学者ですな。
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彼も相槌《あいづち》を打つ。
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――そうですな。本当に熱心な社会学者ですな。
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同時にこの物知り顔の男に序《ついで》に探ぐって置くことがある。小田島は何気無い風を粧《よそお》って聞いた。
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――市長マシップ氏にも用があるんですが、何処に居られますか。
――市長ですか、市長は今朝五時半まであの娘さんとスコットランドの金持ちミスター・ジョージと三人でルイジで小夜食を喰べ乍ら一緒に居ました。三人は今夜西班牙へ出掛けるつもりです。それで市長は用意の支度に家へ帰りました。
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小田島は彼女に喰い尽された残骸としてのドーヴィルを眼の前に感じた。彼女はもう西班牙へ発つのか。ドーヴィルにはもう用は無いのか――小田島はしばらく呆然自分の靴を眺めて居ると男は今度はけげん相に訊く。
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――貴方はマドモアゼルのお友達ですか。
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小田島に突然、イベットを憎む衝動が起きた。イベットは、そんな緊急な事態の矢先きに何故自分をこんな処へ呼び寄せたんだ。彼は腹立ちまぎれに無茶が云い度かった。
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――これでも僕は彼女の恋人ですよ。
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すると男は、今までの柔和に似ず鋭い笑いを見せて云った。
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