ガルスワーシーの家
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此《こ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)野|薔薇《ばら》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にわとこ[#「にわとこ」に傍点]
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 ロンドン市の北郊ハムステットの丘には春も秋もよく太陽が照り渡った。此《こ》の殆《ほと》んど何里四方小丘の起伏する自然公園は青く椀状にくねってロンドン市の北端を抱き取って居る。丘の表面には萱《かや》、えにしだ、野|薔薇《ばら》などが豊かに生い茂り、緻密《ちみつ》な色彩を交ぜ奇矯な枝振りを這《は》わせて丘の隅々までも丹念な絵と素朴な詩とを織り込んで居る。景子のロンドンに於ける仮寓は此の丘の中に在った。
 中秋の或る快晴の日の午後、景子は友人の某大学英文科の助教授宮坂を案内して彼がしきりに逢いたがって居た此の国の文学者ジョン・ガルスワーシー邸を訪ねて行った。
 友人の宮坂は多年の念願が成就する喜びに顔を輝かし丘の小径《こみち》を靴で強く踏みしめながら稚純な勇んだ足どりで先に立って歩いた。ロンドンで曾《か》つて有名だった老女優の隠退後の邸宅が先《ま》ず行手に在る。其の黒く塗られた板塀について曲るとだらだら坂になり、丘の上のメリー皇后の慈善産院の門前へ出た。此処で景子達は一寸《ちょっと》立止まって足を休めた。それから鬱蒼《うっそう》として茂る常磐樹《ときわぎ》の並木を抜けると眼前が急に明るく開けてロンドン市の端《は》ずれを感ぜしめるコンクリートの広い道路が現われる。道路の向う側には市の公園課の設けた細長い瀟洒《しょうしゃ》とした花園が瞳をみはらせる。此の花園は春から夏にかけて、陽に光る逞《たく》ましいにわとこ[#「にわとこ」に傍点]や、細《こ》まかく鋭いおうち[#「おうち」に傍点]の若葉が茂る間にライラックの薄紫の花が漾《ただよ》い、金鎖草の花房が丈高い樹枝に溢れて隣接地帯の白石池から吹き上げる微風にまばゆいばかり金色が揺らめいて居た。今は秋なので紅白、黄紫のダリヤが星のように咲き静まって居る。低い石柱に鉄の鎖を張った外廓に添って其の花園のはずれまで歩くと市街建築の取り付きである二階造りの石灰を塗った古ぼけて小さな乾物屋が在る。其の角を二人は右に切って静かに落ち付いたヴィクトリヤ女王朝前に建てられたという三階建ての家々が立ち並ぶ横丁を歩いて行った。二ツ目の辻の右の角は赤煉瓦の塀で取り囲まれた一劃となって、其の塀越しにすっきりと眼もさめるような白堊《はくあ》の軍艦が浮んで見える。軍艦と見えたのは実は軍艦風に建てられた家屋だ。以前景子は家主と連れ立って此処《ここ》へ初めて来た時、此の軍艦形の建物を発見して子供のように喜んだものだった。其の時家主は景子に話して聞かせた。此の家は、暫らく前に死んだ或る海軍大将の家で、アドミラルハウスと呼ばれて居る。其の大将《アドミラル》は退役後此の軍艦形の家を造って毎日屋上の司令塔に昇り昔の海上生活を偲《しの》んだという話だった。景子は此の話を宮坂にしながら塀に沿って進むと道は頑固な丈の高い鉄柵に突き当り左へ屈曲する。其処《そこ》で景子は其の鉄柵の中の別荘風の建物を指して之《こ》れがガルスワーシーの家だと宮坂に告げた。彼は少しうろたえ気味に停《た》ち止まって暫く門内を眺めて居たが其の家の何んとなく取り付き難い気配いに幾分当惑の色を浮べた。
 此の家は道路に面して鉄柵を張った前庭を置き暗褐色のどっしりした玄関が冷淡に控えて居るが、一寸横へ廻って見ると、この邸内は斜めに奥へ拡がり、四季咲きの紅白の蔓《つる》薔薇に取り囲まれた二百坪ばかりの緑の芝生の裏庭に向う室は軽快なサンルームとなって、通りすがりの男女にちょっと盗見したい気持を起させる。非常に繊細な工夫によって建てられた快適な住居であることがわかる。そしてガルスワーシーがロンドンの汚れた霧|瓦斯《ガス》を遁《のが》れて健康の丘と呼ばれるハムステットに日常人事の受付所として設けた此の邸の表玄関に較べて、ひそやかで而《し》かも華やかな裏庭一帯の感じは、彼が平常多くの時間を過しに行って居る遠く離れた田舎《いなか》の本宅の情景の一部を移し採って来たもののように見える。
 此の邸宅が現わす感じのように典型的の英国人であるガルスワーシーは一見|気難《きむずか》しやのようで実は如才ない苦労人だということがつき合って行くうちに判って来る。景子が英国ペンクラプの会員となって其の主宰者の彼から招待を受けて彼を此の家に訪問して以来、彼は打ち融けて時折り裏庭の亭《あずまや》でお茶の会をして呉れたりした。
 景子は玄関のベルを押した。平素留守番|許《ばか》りさせられて居て、余り動く必要のない為めに肥ったとも思われるような脂肪過多の老女中は玄関の扉を開けて顔を出した。彼女は度々景子を見知って居るのに英国風に改まって景子と同伴者の名前を聴いて引きこんで行く。直ぐ入れ違いにガルスワーシー夫人が現われる。予《あらかじ》め電話で打ち合せがしてあったので待ち受けて居たのであろうにこにこと出迎えた。彼女は日本で言うとそれ者上りのように垢抜《あかぬ》けのした、白ちゃけた感じのする面長の美人で白髪交りの褐色の頭髪を後で手際よくまるめて居る。服装も目立たない黒地がかった普段着のドレスを着て居る。有名な芸術家の妻としての何か特異な姿を待ち望んで居たらしい宮坂は此処でまた一寸不可解な顔をする。夫人の案内で景子達は英国産の樫の木材で内部を組立てた純英国式の応接間へ通った。
 ガルスワーシーは景子達が室へ入るのを待ち兼ねたように閾口《しきいぐち》まで出迎えて握手の手を差し出した。近頃氏の握手には木骨に触れる性の無い堅さを感じる。これは永年の劇《はげ》しい創作的努力と英国紳士としての対外的妥協の生涯から来た全身的疲労の一部だとも考えられる。そして少し光る眼で二人を見おろして居る長身のガルスワーシーは狡猾《こうかつ》と人の好さとを皺《しわ》の目立たぬ面長な顔に好く調和させて、頼母《たのも》しいが油断のならぬ六十歳位の白髪の老紳士だ。ガルスワーシーは東洋人の黒いひたむきな四ツの瞳の鋭い視線をいくらか気弱くそらそうとするように室の中央に在る小さな茶テーブルの向う側の低い椅子に腰かけて少しもの憂げなこごみ加減の長身を横向けにした。応接間は玄関|傍《わ》きの奥へ向って細長い室であった。肝腎の陽射しを受ける南に本棚や壁があって、僅かに奥の方に小窓が在るので其処から入って来る秋の午後の赤茶気た光線は氏の左側を照すのみで、他の部分は――顔も胸も――陰となって向い合った客の景子達だけを明るく照し出した。
 夫人は茶テーブルの上の金縁の紅茶茶碗へ紅茶を注ぐと軽く会釈《えしゃく》して夫の側へ腰を下ろした。此の如何にも物馴れた常識的な客間の状勢は日本の客を受け身にさせ、暫らくガルスワーシーの日本の風物に対する質問等に景子達はただ柔順に受け答えしなければならなかった。やがて助教授宮坂は日本人的のぎこちない真面目な顔付きでガルスワーシーを覗き込むようにしながら氏の近作「銀の匙《さじ》」と「白鳥の歌」に就いて発言しようと口を切った時、玄関へ一団の訪問客の押しかけて来たけはいを感じて言葉を切った。訪問客の一団は丁度ロンドンで開かれたインドに就いての円卓会議の出席者として態々《わざわざ》渡英して来たインド各聯邦の代表者達の秘書の妻君や娘達であることを先刻の肥った老女中の取次ぎが丁寧《ていねい》に伝えて行った。景子達の日本的律義にいくらか窮屈だったらしいガルスワーシー夫妻は急にくつろぎを見付けたように立ち上って、そそくさと玄関へ出かけて行った。二人の日本人は夫妻の其の態度に老英帝国がインド聯邦を保護国として迎える態度を聯想した。賑《にぎ》やかに入って来た客は印度《インド》婦人服独特の優雅で繚乱《りょうらん》な衣裳を頭から被《かぶ》り、裳裾《もすそ》を長く揺曳《ようえい》した一団の印度婦人だった。
 始めその婦人達は先客としての日本の男女を紹介されてちょっと気負いを挫《くじ》かれた形だったが、直き又揃えたような美貌を正面に立ててガルスワーシーに逢えた光栄を得意の英語の大げさな口調でしゃべり始めた。室の入口の両隅に寄せてあった五脚の低い椅子を夫人と女中が茶テーブルの周りに持って来る間に景子達はガルスワーシーの左側へ椅子を寄せて陽射しを自分達の顔から新来の印度女達の面上へ譲る。此の五人の印度女の内で一段|際立《きわだ》って見えるカシミヤ代表の秘書の夫人は細くすんなりとした体に桃色絹のインド服を頭や腕や腰にはめた黄金造りのバンドで締めつけ、同じ色絹のべールを頭から背へかけて居た。足には流石《さすが》に英国風の飾り靴をはいて居たが足頸にも金環をはめて居た。彼女は腰掛けて居ながら亢奮したように絶えず身を動かして体中の金飾りを鳴らした。彼女は身をくねらせて魅惑的なしな[#「しな」に傍点]をしながら大理石の彫刻のような顔の鼻柱に迫る両眼の生々しい輝きに時折り想い詰めた情慾のようなひらめきを見せてべールの間からガルスワーシー夫妻や二人の日本人達を交互に見て癇高《かんだか》い声で言った。
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――私は詩人です。私は三代続いた詩人の家の娘です。私は詩が好きですよ。英国ではイエーツが一番好きで、其の次ぎにはシェリー、キーツが好きです」
[#ここで字下げ終わり]
 カシミヤ夫人は景子が期待して居たように同じ東洋人を懐かしいとも言わない。そればかりか其の度合いの取れない飛び上った話の調子に景子達の方が思わず恥かしい気持ちにさせられて黙って居るより外《ほか》仕方がなかった。
 宮坂は始め客達に目を瞠《みは》らせられた物珍らしさが過ぎると、此の不意に現われて際限もなく自分の会談を奪って居る女性達にいらいらした不満を抱き始めたらしかった。彼は印度女達の饒舌の切れ目を待って勇者のような思い切った態度でガルスワーシーに問いかけた。
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――あなたは宗教に就いてどう考えますか?」
[#ここで字下げ終わり]
 ガルスワーシーは此のだしぬけの質問に周章《あわ》てて今まで正面の印度女達を見て居た顔を左へ振り向け、もう一度質問を聴き返えしたが少し困ったような顔で言った。
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――宗教ですか? それは大問題ですね。」
[#ここで字下げ終わり]
 そして正面の饒舌家の女性群と眼を見合わすと、止むを得ぬはずみのように言った。
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――あなた方はどう御考えですか?」
[#ここで字下げ終わり]
 インドの女詩人は順番がやっと来たので勇んで演壇に飛び上ってしゃべり出す弁士のように両眼を輝やかし鞣皮《なめしがわ》細工のような形の宜《よ》い首を前へつき出した。
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――私達はマホメットの宗教を信じ剣を以《も》って邪を払い、詩を以って心を養います」
[#ここで字下げ終わり]
 宮坂はまたしても此の高飛車なまぜっかえしのような返答に逢ってちょっと吹き出しそうにしたが、直ぐまたむっとして怒ったような顔をそむけて沈黙した。
 其の時ガルスワーシーは北側の壁の中央に在るマントルピースの上に立てかけてあった小さい額を取り卸《おろ》して来て日本人達に見せた。彼に取っては迷惑千万な宗教問題を得たり賢しと自分に引取って面白くもない自己吹聴を並べたてる回々《マホメット》教徒の女の誇張した恍惚感の説明や排他的な語気は、たとえ相客が表面無礼を感ぜぬように装って居るにしても主人側から見て英国人のサロンの空気をにがにがしくするように思った。ガルスワーシーが突如此の額を卸ろして来て景子達に差出した仕打ちは一つは宗教問題打ち切りの宣告でもあり、一つは印度女への無言の叱責でもあった。其の額にはガルスワーシーが畏敬と如才ない愛想の筆致でもって戯画化さ
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