れて居た。
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――ミスター・ロウが描いて呉れたんですよ。あのイヴニング・スタンダード紙の。似て居ますか?」
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 流石《さすが》に印度女達は黙ってしまった。そして今までの突飛な高調した態度とは打って変って極めて常識的な地味な女達になってお互いにこそこそ用事の話を始めた。
 此の有名な漫画家の描いた文豪の似顔画はあまり出来のいいものではなかった。臆した堅苦しい写生の上に無理に戯画的のものをつけ加えたちぐはぐの部分が景子達にも判った。
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――すこし老《ふ》けて描いてはございませんか」
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 ガルスワーシーは額を自分の手に引取り見直したのち、
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――左様。そう言えば、そうですね。多分私の苦労した方面をロウ君が捉えたのでしょう」
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 そう言って笑った。
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――此のロウ君はですね、濠洲生れの男でしてね。線と簡単化ということでは沢山東洋的のものを持ってるように思うんですが日本のお方にはどう見えますか。それに此の人の漫画のユニークなところも欧洲人の持前のものと違って消極的な苦《にが》いものがあるのですが、之れも東洋的のものとはお思いになりませんか。ロウ君の仕事なぞから感じさせられますが濠洲に行って居る欧洲人の移民が三代、四代も経つと段々東洋化されて行くようです」
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 その観察は確かにガルスワーシーが不断から抱懐して居るものに違いない様子だが、それを此の場合に述べる口振りには此の英国文豪が客によって自分の意見の真実を曲げずに而《し》かも客への愛想となる好話題を選み出せる如才ない一面が覗《うかが》われる。
 景子は主人の好意を認めるようにただ「そうです、そうです」と返事した。
 印度女達は咽喉をつめられて声の出せないような重苦しい状態の下に長くは我慢して居なかった。持参したインド土産らしい布地などをガルスワーシー夫人に手渡しながら不平の交った荒っぽい賑やかさを残して客間を引き上げて行った。
 送って玄関まで行ったガルスワーシー夫人が応接間へ帰って来た時、何んとなく取り散らかされたような室内の気配のなかに少し不興気な先客を置くのを恐縮しながら夫妻は裏庭のサンルームの方へ更《あらた》めて二人を案内した。途中夫人の居間らしい褐色に塗られた北側の室と、カーテンを引いた白ペンキ塗りの枠を持つ今|一《ひとつ》の部屋の窓からは内部の模様がわからなかったが食堂らしい南側の室との間の細長い廊下を引き切って、先頭に立ったガルスワーシーが其のいくらか前屈《まえかが》みの長身を横にそらすと景子達は庭の芝生の緑の強い反射に眩《くら》まされて眼をまたたきながらサンルームに出た。勧められた安楽椅子にちょっと手をかけた景子は急に此庭の秋色が見たくなって窓際へ近寄って行った。
 中央の亭の柱にからんで、円錐形の萱葺《かやぶ》き屋根の上へ這い上って居る蔓薔薇は夏から秋に移ると直ぐに寒くなる英国の気候にめげてまばらに紅白の花を残して居たが、其の亭の周りのシンメトリカルに造られた四ツ弧形の花床には紅白黄紫の大輪菊がダリヤかと見えるようなはっきりした花弁をはねて鮮やかに咲き停《とどめ》て居る。景子は思わず嘆声を洩した。
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――日本の菊!」
――日本の菊じゃありませんよ。いくら花の形や色がそっくりでも、英国に咲いてるのは矢張り英国の菊ですよ。香も日本の菊程無いし、葉にもむく毛が無い。全体に日本の菊のようにおっとりした品が無くって徒《いたずら》にパッと開いて居ますね」
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 宮坂は景子の直ぐ傍へ来て今までの鬱屈を晴らすような明快な声で言い放った。空気と共に花の匂いを一ぱい胸に吸い込むような大きな息もした。その時一たん椅子に坐ったガルスワーシーが二人の話題へはいりに立って来ようとするので二人はあわてて席へ戻った。やっと落ち付いて主客話し合おうとして見たが、応接間で印度の女達から受けたちぐはぐな気持がお互いの頭に、しこって居たのですぐにも打ち融けかねた。窓から入る気まぐれな風が灰皿や花瓶や英国製の純白の磁器を冷たく撫でて、そこらを二三度|匍《は》い廻った。
 ガルスワーシーは立ち上って窓を閉めリョウマチスらしい左の肘《ひじ》を右の手で揉みながらしっかりと座に即《つ》いて最後に取って置きのお愛想をするのだと言わんばかりに自分の言葉に貴重さを響かしてこう言った。
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――失礼ですが私共からあなた方を見ると皆育ち盛りの児《こ》どものように見えますよ。あなたのお国の方には前にも五六人以上お会いして相当年配の方も居られたようですが然《しか》し、やっぱり児どものようなところがあるのです。育ち盛りの………。何でも訊き度がりなさるところなぞも」
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 老文豪が此の言葉を言った時にちらりと皮肉な様子を口元に見せたがすぐその影は消えて再び親切に努める態度に立戻った。
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――それに引きかえ私達の国の人間を御覧なさい。児どもでも老人のようには見えませんか、青いうちに皺の入った瘠地の杏《あんず》のように。別《わ》けて中産階級の児どもは。犬でも鶏でも、どうも私達の国のものは年寄り染みてるらしいのです。困りましたね」
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 いつか新らしく茶を運んで来てまた、夫の傍に坐って居た夫人は此の時ちらりと夫の顔を見た其の瞳にはそれほどまでの話をしなくともと夫を窘《たしな》める様子に見えた。けれども老文豪は信ずるところあるものらしく逆に言葉を強めて言った。
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――一番いけないことは私共英国人の趣味に消極を楽しむという傾向の入って来たことです。それも東洋人の持つような積極的に通ずる徹底した消極趣味というのではたく、五分縮められ、三分縮められて行くことに反抗しながらしかも押し流されて行く、其処に人生の味があるのだと思うようになってしまったことです。退嬰《たいえい》を悲しむうちはまだ脈があります。退嬰を詩に味わうようになったらおしまいです」
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 景子は此の文豪の著作の「銀の匙」の趣意を想い出した。「銀の匙」を使い切れぬようになっても銀の匙を思い切って投げ捨てられない未練な英国人を頭に浮べた。宮坂はと見ると、思いがけなく、自国を率直に語る文豪の言葉の真実性に内心驚喜し、彼の味到癖《みとうへき》を傾けつくして其の一句一句を蜜のように貪《むさぼ》り吸っている様子だ。
 老夫人はと見るとさぞ渋面作っているであろうと、思いの外、もう峠を越したというふうに晴やかで退屈な顔に戻った。流石に老夫人は夫の習性をよく知っていたのだ。ここまで究極すれば必ず話の筋を救い上げる文豪の心の抑揚をよく知っていたのだ。果してガルスワーシーは言った。
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――だが………」
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 ガルスワーシーはまた立上った。そしてズボンの隠しに両手を入れて思案深い、やや老獪《ろうかい》な態度で室内を漫歩しながら続けた。
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――だが、私共はいくつでもブレーキを持って居るのです。自分でもうるさいくらいの。で、その沢山のプレーキの歯止めを噛ませるうちには、どれかの歯止めが役に立つのです。我々英国民はそうやすやすとは押し流されはしないでしょう」
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 さて此の首尾を全《まっと》うした愛想話が客にどういう効果を与えたか老獪にちょっと此方《こちら》を窃《ぬす》み視た。其の態度はずるいと言えばそれまでだが衰えながら、やっぱり年長の位を保って相手に大様《おおよう》さを見せ度がって居る老人の負けず嫌いが深く籠《こも》っていた。
 老夫人は特に客に此の結論に注意せよといったふうに、「その通り」と相槌《あいづち》をうった。
 話が余りにまとまりよく、そして鮮かに引き結ばれたので、その後に残った却って興味索然とした空白が四ツの顔をただまじまじさせた。
 景子は切上げ時だと思って催促の眼ざしを宮坂の横顔に向けた。宮坂は度の強い近視眼鏡の奥で睫毛《まつげ》の疎い眼を学徒らしく瞑目していた。それが景子には老文豪の話を頭で反芻《はんすう》して居るらしく見えた。暫らくそうさしといて、やがて景子が口に出して声をかけようとする時、宮坂は眼をポックリ開いて、さも決心したらしい顔付きで言った。
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――恐れ入りますが、先生の手の筋を拝見さして頂き度いのですが………記念の為めに」
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 余り宮坂の唐突な言葉に景子もやや呆れた。ガルスワーシーはなお受取り兼ね二三度反問したが結局どうやら宮坂の希望の目的が判ったので笑いながら大きな手を宮坂の前に差出した。
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――さあ、よく見て頂きましょう。多分神秘な運命が筋に現れている筈です」
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 そう言って彼は笑った。夫人も浮腰になり今更のように長年苦労を共にして来た夫の老いた掌を覗いた。そして此の尊敬すべきか、軽蔑すべきかを決しかねた日本人に対する態度を仔細に視まもった。
 宮坂は彼が熱心になるときの子供のように顧慮しない性癖を丸出しにして老文豪の八ツ手の葉のような扁平な開いた手をつまんで地図を見るように覗き込んだ。宮坂のそのあまり熱心な様子が夫人に却って気軽な興味を覚えさせたらしく、夫人は一層乗出して来て夫の手の筋の説明を求めた。
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――少し、こまかいですが、常識が円満に発達しています」
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 妻が此の宮坂の唐突の説明にあっけにとられて居るのをガルスワーシーは引きとった。
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――妻に世話を焼かす運命が手筋に出てはいませんか」
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 ガルスワーシーの座興的なうけ答えのように一見其の場の光景はやはりちょっとした座興的なもののようには違いないが然し景子には笑えなかった。彼女は此の文豪の手筋を熱心に、と見こう見する宮坂の意図がどんなに切実なものであるかを知っていた。
 宮坂は中学時代から創作家志望で、某大学の文科へ入ったのも其の為めであった。彼が創作の為めとして勉強する資料は創作の糧《かて》にはならずに学問の蓄積になった。創作はいくら書いても文壇には受け容れられなくて傍稼《わきかせ》ぎに書く文学講座の方がうけがよかった。彼を引立てている教授は言った。
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――君は学問の筋だよ。創作はあきらめ給え」
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 そうして彼を無理に研究室に入れ、次いで助教授にした。然し彼はどうしても創作は思い切れなかった。学校の方が忙しくなってもう創作の筆は取れなくなったが、然し今に今にといって友人に会えば其の話に熱中した。彼が創作の話をするときには、まるで恋人の話をするような響を持った。
 結婚して子供が二人も出来るようになっても彼は創作に対する恋を捨てなかった。しかも其の恋は愈々《いよいよ》外れて行くだけだった。彼はいつか運命ということを考え詰めるようになった。彼はしきりに手相に凝《こ》り出した。彼の幼な友達の景子の夫なぞもよく宮坂の手相見の稽古台にされてうるさがった。
 彼が欧洲留学を命ぜられて大陸を歩いて居るうちにも歴訪した有名な文人達には一々手相を見せてもらって来たのであった。そして自分の手相と比較した。宮坂があのほろ苦い理智の匂う独逸の作家の名を挙げて「僕のはトーマス・マンのに一番似ているね」そういうときは如何にも嬉しそうだった。
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