かの女の朝
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)性情《せいじょう》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何故|其処《そこ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ひと[#「ひと」に傍点]
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 K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図《いと》としては、フランス人の性情《せいじょう》が、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧《れいり》さで、敵国の女探偵を可愛《かわ》ゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランス及《およ》びフランス人をよく知る僕《ぼく》には――もちろんフランス人にも日本人として僕が同感し兼《か》ねる性情も多分《たぶん》にありますが――それが実に明白に理解されます。そして此《こ》の作はその意味として可《か》なり成功したものでしょう。だが、これは僕自身としてのママへの希望ですが、ママは何故《なぜ》、ひと[#「ひと」に傍点]のことなんか書いて居《い》るのですか。ママにはもっと書くべき世界がある。ママの抒情《じょじょう》的世界、何故|其処《そこ》の女主人公にママはなり切らないのですか。ひと[#「ひと」に傍点]のこと処《どころ》ではないでしょう。ママがママの手を動かして自分の筆を運ぶ以上、もっと、ママに急迫《きゅうはく》する世界を書かずには居られないはずです。それを他国の国情など書いて居るのは、やっぱりママの小児性《しょうにせい》が、いくらか見せかけ[#「見せかけ」に傍点]の気持ちに使われて居るからですよ。ママ! ママは自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい。幼稚《ようち》なアンビシューに支配されないで。でなければ、小説なんか書きなさいますなよ。
[#ここで字下げ終わり]

 かの女の息子の手紙である。今、仏蘭西《フランス》巴里《パリ》から着いたものである。朝の散歩に、主人|逸作《いっさく》といつものように出掛《でか》けようとして居る処《ところ》へ裏口から受け取った書生《しょせい》が、かの女の手に渡した。
 逸作はもう、玄関に出て駒下駄《こまげた》を穿《は》いて居たのである。其処へ出合いがしらに来合わせた誰かと、玄関の扉《とびら》を開けた処で話し声をぼそぼそ立てて居た。
 かの女は、まことに、息子に小児性と呼ばれた程《ほど》あって、小児の如《ごと》く堪《こら》え性《しょう》が無《な》かった。
 主人逸作が待って居《い》そうでもあったが、ひと[#「ひと」に傍点]と話をして居るのを好《よ》いことにして、息子の手紙の封筒を破った。そして今のような文面にいきなり打突《ぶつ》かった。
 だが、かの女としては、それが息子の手紙でさえあれば、何でも好かった。小言《こごと》であろうと、ねだりであろうと、(だが、甘えの時は無かった。息子は二十三歳で、十代の時自分を生んだ母の、まして小児性を心得て居て、甘えるどころではなくて、母の甘えに逢《あ》っては叱《しか》ったり指導したりする役だった。普通生活には少しだらしなかったが、本当は感情的で頭の鋭い正直な男子だった。)そしてやっぱり一人息子にぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]な主人逸作への良き見舞品となる息子の手紙は、いつも彼女は自分が先《さ》きに破るのだった。
 ――あら竹越さんなの。
 逸作と玄関で話して居たのは、かの女の処《ところ》へ原稿の用で来た「文明社」の記者であった。
 ――はあ、こんなに早く上《あが》って済みませんでしたけれど……。その代《かわ》りめったにお目にかかれない御主人にお目にかかれまして……。
 竹越氏が正直に下げる頭が大げさでもわざとらしくはなかった。逸作は好感から微笑してかの女と竹越との問答《もんどう》の済むのを待って、ゆっくり玄関口に立って居た。
 竹越氏が帰って行った。二人は門を出て竹越氏の行った表通りとは反対の裏通りの方へ足を向けた。
 ――今の記者|何処《どこ》のだい。
 ――あら、知らないの、だって親し相《そう》に話して居なすったじゃないの。
 ――だって向《むこ》うから親しそうに話すからさ。
 ――雑誌が大変よくってなんて仰《おっしゃ》って居たじゃないの。
 ――だって、記者への挨拶《あいさつ》ならそれよりほか無いだろう。
 ――何処《どこ》の雑誌か知らなくっても?
 ――そうさ、何処の雑誌だっておんなじだもの。
 ――あれだ、パパにゃかないませんよ。
 かの女は自分のことと較《くら》べて考えた。かの女はいつか或《あ》る劇場の廊下で或る男に挨拶《あいさつ》された。誰だか判《わか》らなかったが、彼女は反射的に頭を下げた。だが、知らない人に頭をさげたことが気になった。そしてやっぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程《はんちょうほど》もその男のあとを追って
 ――あなたは、何誰《どなた》でしたか。
 と真面目《まじめ》で男の顔を見て訊《き》いた。男はかつて、かの女の処《ところ》へは逸作の画業に就《つ》いての用事で、或《あ》る雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女が其《そ》の時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々《ほうぼう》で話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業に於《おい》て人気者の逸作と、度々《たびたび》銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚《おうよう》に黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮《やぼ》なまじめを繰り返しても居《い》なかったが、今朝《けさ》の逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直《ぐちょく》な自分を思い出した。
 ――痛《いた》っ。
 かの女は駒下駄《こまげた》をひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石《しきいし》が、一つは角を土からにょっきり[#「にょっきり」に傍点]と立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態《しゅうたい》に変《かわ》っているのだ。裏町で一番広大で威張《いば》っている某|富豪《ふごう》の家の普請《ふしん》に運ぶ土砂《どしゃ》のトラックの蹂躙《じゅうりん》の為《た》めに荒された道路だ、――良民《りょうみん》の為めに――の憤《いきどお》りも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。
 ――ねえパパ、此《こ》のO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気も納《おさま》るね。
 ――まあ、そんなものだ。
 二人は歩きながら話す。
 実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方は一《いっ》ぱいの樹海《じゅかい》だ。緑の波が澎湃《ほうはい》として風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生の為《た》め市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。此《こ》の富豪は我が町に緑樹の海を置いて居《い》る。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。――ものの利害はそんな処《ところ》で相伴《あいともな》い相償《あいつぐ》なっているというものだ――と二人はお腹《なか》の中で思い合って歩いて居るのだ。
 二三丁行くと、或《あ》る重役邸の前門の建て換え場だ。半月も前からである。
 ――変な男女が、毎朝、同じ方向から出かけて来ると思ってるだろうね、人夫《にんぷ》達が。
 と、かの女。
 ――ふん。
 逸作は手を振って歩いて居る。中古の鼠色《ねず》縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》が、腰でだらしなくもなく、きりっ[#「きりっ」に傍点]とでもなく穏健《おんけん》に締《しま》っている。古いセルの単衣《ひとえ》、少し丈《たけ》が長過ぎる。黒髪が人並よりぐっと黒いので、まれに交《まじ》っているわずかな白髪が、銀砂子《ぎんすなご》のように奇麗《きれい》に光る。中背《ちゅうぜい》の撫《な》で肩《がた》の上にラファエルのマリア像のような線の首筋をたて、首から続く浄《きよ》らかな顎《あご》の線を細い唇《くちびる》が締めくくり、その唇が少し前へ突き出している。足の上《あが》る度《たび》に脂肪《あぶら》の足跡が見える中古の駒下駄でばたりばたり歩く。
 かの女は断髪《だんぱつ》もウエーヴさえかけない至極《しごく》簡単なものである。凡《およ》そ逸作とは違った体格である。何処《どこ》にも延びている線は一つも無い。みんな短かくて括《くく》れている。日輪草《にちりんそう》の花のような尨大《ぼうだい》な眼。だが、気弱な頬《ほお》が月のようにはにかんでいる。無器用《ぶきよう》な小供《こども》のように卒直に歩く――実は長い洋行後|駒下駄《こまげた》をまだ克《よ》く穿《は》き馴《な》れて居ないのだ。朝の空気を吸う唇に紅《べに》は付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持《みも》ちよく保って居る健康な女の唇の紅《あか》さだ。荒い銘仙絣《めいせんがすり》の単衣《ひとえ》を短かく着て帯の結びばかり少し日本の伝統に添《そ》っているけれど、あとは異人女が着物を着たようにぼやけた間の抜けた着かたをして居る。
 ――ね、あんたアミダ様、わたしカンノン様。
 と、かの女は柔《やわら》かく光る逸作の小さい眼を指差し、自分の丸い額《ひたい》を指で突いて一寸《ちょっと》気取っては見たけれど、でも他人が見たら、およそ、おかしな一対《いっつい》の男と女が、毎朝、何処《どこ》へ、何しに行くと思うだろうとも気がさすのだった。うぬ惚《ぼ》れの強いかの女はまた、莫迦《ばか》莫迦しくひがみ[#「ひがみ」に傍点]易《やす》くもある。だが結局|人夫《にんぷ》は人夫の稼業《かぎょう》から預けられた土塊《つちくれ》や石柱を抱《かか》え、それが彼等《かれら》の眼の中に一《いっ》ぱいつまっているのだ。その眼がたまたまぬすみ視した処《ところ》が、それは別に意味も無い傍見《わきみ》に過ぎないと、かの女は結論をひとりでつける。そして思いやり深くその労役《ろうえき》の彼等を、あべこべに此方《こちら》から見返えすのであった。
 陽気で無邪気なかの女はまた、恐ろしく思索《しさく》好きだ。思索が遠い天心《てんしん》か、地軸にかかっている時もあり、優生学《ゆうせいがく》や、死後の問題でもあり、因果律《いんがりつ》や自己の運命観にもいつかつながる。喰《た》べ度《た》いものや好《よ》い着物についてもいつか考え込んで居《い》る。だが、直《す》ぐ気が変《かわ》って眼の前の売地の札《ふだ》の前に立ちどまって自分の僅《わず》かな貯金と較《くら》べて価格を考えても見たりする。
 かの女は今、自分の住宅の為《ため》にさして新《あた》らしい欲望を持って居ないのを逸作はよく知って居る。かの女が仮想《かそう》に楽しむ――巴里《パリ》に居る独《ひとり》息子が帰ったら、此《こ》の辺《あたり》へ家を建てて遣《や》ろうか、若《も》しくはいっかな帰ろうとしない息子にあんな家、斯《こ》んな家でも建てて置いたら、そんな興味が両親への愛着にも交《まじ》り、息子は巴里から帰りはしないか。あちらで相当な位置も得、どう考えてもあちら[#「あちら」に傍点]に向いて居る息子の芸術の性質を考えるとこちらへ帰って来るようには言えない。またかの女の芸術的良心というようなものが、それは息子の芸術へというばかりでないもっと根本の芸術の神様に対する冒涜《ぼうとく》をさえ感ずる。芸術的良心と、私的本能愛との戦いにかの女はまた辛《つら》くて涙が眼に滲《にじ》む。息子の居ない一ヶ所|空《から》っぽうのような現実の生活と、息子の帰って来た生活のいろいろな張り合いのある仮想生活とがかの女の心に代《かわ》る代《がわ》る位置を占めるのである。かの女は雑草が好きだ。此の空地《あきち》にはふんだんに雑草が茂っている。なんぼ息子の為に建ててやる画室でも、かの女の好みの雑草は取ってしまうまい。人は何故《なぜ》に雑草と庭樹《にわき》とを区別する権利があったのだろう。例えば天上の星のように、瑠璃《るり》を点ずる露草《つゆくさ》や、金銀の色糸
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