を覗《のぞ》くようにして言った。
――どうって、…………君はどう思う。
――私?
かの女は眼を瞑《つむ》って渋《しか》め面《つら》して笑い直した。そして眼を開いて真面目に返ると言った。
――余《よ》っぽど現実世界でいじめられてる人じゃないかしら。普通ならお墓へ来れば気が引締まるのに。お墓へ来て気がゆるんでおなら[#「おなら」に傍点]をする人なんて。
かの女達が腰を上げて墓地を出ようとすると、其処《そこ》へ突然のようにプロレタリア作家甲野氏が現われた。
朝は不思議にどんなみすぼらしい人の姿をも汚《きた》なくは見せない。その上、今日の甲野氏はいつもよりずっと身なりもさっぱりして居る。
――やあ。
――やあ。
男同志の挨拶《あいさつ》――。
かの女は咄嗟《とっさ》の間に、おなら[#「おなら」に傍点]の嫌疑《けんぎ》を甲野氏にかけてしまった。そしてその為《た》めに突き上げて来た笑いが、甲野氏への法外《ほうがい》な愛嬌《あいきょう》になった。そのせいか一寸《ちょっと》僻《ひが》み易《やす》い甲野氏が、寧《むし》ろ彼から愛想よく出て来た。
――奥さんには久し振りですな。
――散歩?
――昨夜晩くまでかかって××社の仕事が済んだので、今朝《けさ》早く持ってって来ました。
――奥さんがお亡《なく》なりになってからお食事なんか如何《どう》なさいますの。
――外で安飯《やすめし》を喰《た》べてますよ。
――大変ね。
――独《ひと》り者の気楽さって処《ところ》もありますよ。
墓地を出て両側の窪《くぼ》みに菌《きのこ》の生《は》えていそうな日蔭《ひかげ》の坂道にかかると、坂下から一幅《いっぷく》の冷たい風が吹き上げて来た。
――どうです、僕の汚い部屋へ一寸《ちょっと》お寄りになりませんか。
――有難《ありがと》う。
逸作もかの女も甲野氏の部屋へ寄るとも寄らぬとも極《き》めないでぶらぶら歩いた。道が、表街近くなった明るい三つ角に来た時、甲野氏は、自分の部屋に寄りそうもない二人と別れて自分の家の方へ行こうとしたが、また一寸引きかえして来て、殊《こと》にかの女に向いて言った。
――僕、昨日の朝、散歩の序《ついで》に戸崎夫人の処《ところ》へ寄って見ましたよ。
――そう、此頃《このごろ》あの方どうしてらっしゃる?
――相変《あいかわ》らず真赤な洋服かなんか着てね、「甲野さんのようなプロレタリア文学家と私のような小説家と、どっちが世の中の為《た》めになるかってこと考えて御覧《ごらん》なさい。世の中には食えない人より食える人の方がずっと多いのだから、私の小説は、その食える人の方の読者の為めに書いてるんだ。」と、斯《こ》うですよ。は、は、は、は。
かの女は、華美でも洗練されて居《い》るし、我儘《わがまま》でも卒直《そっちょく》な戸崎夫人の噂《うわ》さは不愉快《ふゆかい》でなかった。そういう甲野氏も僻《ひが》み易《やす》いに似ず、ずかずか言われる戸崎夫人をちょいちょい尋《たず》ねるらしかった。
――あなたの噂《うわさ》も出ましたよ。あなたをたんと褒《ほ》めて居たが、おしまいが好《い》いや、――だけどあの方あんなに息子の事ばかり思ってんのが気が知れないって。
かの女はぷっと吹き出してしまった。かの女は子を持たない戸崎夫人が、猫、犬、小鳥、豆猿と、おおよそ小面倒な飼い者を体の周りにまつわり付けて暮らして居る姿を思い出したからである。
底本:「愛よ、愛」メタローグ
1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第五巻」冬樹社
1974(昭和49)年12月発行
※「二三丁」「量見《りょうけん》」「鍵形《かぎがた》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年2月17日作成
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