ときは画業に対しある時はかの女に対する愛であると云《い》うよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女も亦《また》それを確実に常に受け取って居《い》るのである。だから、かの女は自分の妄想《もうそう》までが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までを傍《そば》で逸作の機敏な部分が、咀嚼《そしゃく》していて呉《く》れる。咀嚼して消化《こな》れたそれは、逸作の心か体か知らないが、兎《と》に角《かく》逸作の閑却された他の部分の空間にまで滲《し》みて行く――つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想|出来《でき》るということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女|等《ら》の本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字
前へ
次へ
全34ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング