《いろいと》の刺繍《ししゅう》のような藪蔓草《やぶつるくさ》の花をどうして薔薇《ばら》や紫陽花《あじさい》と誰が区別をつけたろう。優雅な蒲公英《たんぽぽ》や可憐《かれん》な赤まま草を、罌粟《けし》や撫子《なでしこ》と優劣《ゆうれつ》をつけたろう。沢山《たくさん》生《は》える、何処《どこ》にもあるからということが価値の標準となるとすれば、飽《あ》きっぽくて浅《あさ》はかなのは人間それ自身なのではあるまいか。だが、かの女が草を除《と》らないことを頑張れば息子も甘酸《あまず》っぱく怒って、ことによったらかの女をスポーツ式に一つ位《くら》いはどやす[#「どやす」に傍点]だろう。そしたらまあ、仕方が無い、取っても宜《よ》い。どやす[#「どやす」に傍点]と言えば、かの女が或時《あるとき》息子に言った。「ママも年とったらアイノコの孫を抱くのだね、楽しみだね」と、極々《ごくごく》座興《ざきょう》的ではあったけれど或時かの女がそれを息子の前で言ってどやさ[#「どやさ」に傍点]れたことをかの女は思い出した。どやし[#「どやし」に傍点]た息子の青年らしい拳《こぶし》の弾力が、かの女の背筋に今も懐かしく残っている。その時息子は言った。「子を生むようなフランス女とは結婚しませんよ。」それはフランス女を子を生む実用にしないと言うのか、或《あるい》は子を生むような実用的なフランス女は美的でないと言う若者の普通な美意識から出た言葉か知らなかったが、それも今では懐かしくかの女に思い返されるのであった。六年前連れて行ってかの女と逸作が一昨年|帰《か》える時、息子ばかりが巴里《パリ》に残った。
 かの女が分譲地の標札《ひょうさつ》の前に停《とま》って、息子に対する妄想《もうそう》を逞《たくま》しくして居《い》る間、逸作は二間|程《ほど》離れておとなしく[#「おとなしく」に傍点]直立して居た。おとなしく[#「おとなしく」に傍点]と言っても逸作のは只《ただ》のおとなしさ[#「おとなしさ」に傍点]ではない。宇宙を小馬鹿《こばか》にしたような、ぬけぬけしいおとなしさ[#「おとなしさ」に傍点]だ。だから、太陽の光線とじか[#「じか」に傍点]取引《とりひ》きである。逸作のような端正《たんせい》な顔立ちには月光の照りが相応《ふさわ》しそうで、実は逸作にはまだそれより現世に接近したひと皮がある。そのせいか逸作も太陽が好
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