》を離れて、
吾が庭へ來て鳴け、
お前、可愛いい雌鹿。

ああうれし、うれし、
お前に此の心の文字をゑりつけよう。
ああ夜毎の夢にあらはれる文字、
心の奧底にしまつてある私の文字、
それをお前の心にゑりつけよう。

  荒廢

荒い雲のなかに
隱されてる月は、
深夜の灰色の都會を
何と見るか。
とどろに吹きまはる疾風《はやて》は、
遙かな地平線に落ちて行つて、
そこには黒い空、
もの寂びしく眠る屋根屋根の果て、
ああ下界は銀灰色《ぎんくわいしよく》に輝く太古の動物の背にも似て、
その歴史ない歴史の世を追想させる。
この中に私はあり
胸にふいご場《ば》のごときくわつ/\とした火を蓄へ、
聞くものは風に鳴る屋根、
時折り遠くで吠える犬、
ああその犬よ、何といふけたたましくも淋しい聲ぞ。
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字10、1−13−30] 20

  一人の旅人

お前を思はず秋となつて、
今はた思はず、戀を、
ねたみを!
華々しい秋口《あきぐち》の烈しい日照り、
濃い青色《あをいろ》の屋根越しの木々の、
涼しい風に搖られる午後《ひるすぎ》。

時は過ぎて行く、
はためく店々の日
前へ 次へ
全39ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福士 幸次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング