おれ達の女主人は蟲の居どころ次第で天氣が變る、
なほまたどんな淫婦のたらかしにも、
どんな毒婦の殘酷にも、
どんな娼婦の陽氣にも、
どんな威嚴のある女王の表情にも、
負けない神通自在の變化を持つてるのは、
おれ達の女主人《をんなしゆじん》だ。
嵐、
熱風、
荒くれた土用波、
無風帶の脂を浮かした水平面、
無人《むにん》の白い塔を押し流す寒流《かんりう》、
その極地の沿岸をあらふ三角波《さんかくなみ》、
おれ達の女主人はこの光景のなかをも出沒する。
陸の人間界には律がある、固定がある、
おれ達船乘りの一等恐しいのは之れだ。
生命は不斷に流れる、
過去は夢の閲歴《えつれき》だ、
未來は霧である、
そこでおれ達の生涯も冒險的生涯だ。
もし人間がいつまでも若い氣でゐたいなら固定するな、
變現きはまりない海の女王を見習へ、
命の全額をお賽錢に投げだして、
自分の守り本尊にしろ。
おれ達は海に苦しめられるが海を憎まない、
しかし陸では法律に惠まれながら法律を憎む。
陸には教師はゐないが、
海には立派な導き手がゐる、
嵐はその鞭だ、
波はその接吻だ、
風は搖り籠のその白い手だ、或は臭い髮の毛をかいてくれるその櫛だ。
そして凪ぎ!
凪ぎは慈愛に充ちた美しい目の凝視だ、
おれは陸上の口八釜しい虚榮坊《みえばう》の道學先生を憎む、
人生は善でもない、惡でもない、
そんな詮索だては此處では通用しない、
此處では命の流れである、
實在する夢の貯蓄である、
未見に對するあこがれである、
慈愛に充ちた海はおれ達を抱く、
おれ達を搖《ゆす》る、
おれ達をキツスする、
ときには脣を噛む、
咽喉をしめる、
狂氣的に、猛烈に、
ところが今はまた凪いでゐる、
魔睡的な海、
夢見ごこちの海、
おれ達を靜かにあやし、
おれ達を靜かに舐《ね》ぶり、
おれ達を靜かにうとつかせ、
おれ達を靜かに熟睡へおくる。
晴れやかな空には神でも居睡つてゐさうだ、
ただ青くひろびろと光いつ杯に漲り、
中天にポカンと輝く晝の日の黄金《きん》の、
おれはその黄金《きん》のみでない、
そばに輝く日中の金星も見つけた。
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字12、1−13−55] 14
この殘酷は何處から來る
どこで見たのか知らない、
わたしは遠い旅でそれを見た。
寒ざらしの風が地をドツと吹いて行く。
低い雲は野天《のてん》を覆つてゐる。
その時火のつく樣な赤ん坊の泣き聲が聞え、
さんばら髮の女が窓から顏を出した。
ああ眼を眞赤に泣きはらしたその形相《ぎやうさう》、
手にぶらさげたその赤兒、
赤兒は寒い風に吹きつけられて、
ひいひい泣く。
女は金切り聲をふりあげて、ぴしや/\尻をひつ叩く。
死んでしまへとひつ叩く。
風に露《あば》かれて裸の赤兒は、
身も世も消えよとよよと泣く。
雪降り眞中《まなか》に雪も降らない此の寒國《かんごく》の
見る眼も寒い朝景色、
暗い下界の地に添乳《そへぢ》して、
氷の胸をはだけた天、
冬はおどろに荒れ狂ふ。
ああ野中の端の一軒家、
涙も凍るこの寒空に、
風は悲鳴をあげて行く棟の上、
ああこの殘酷はどこから來る、
ああこの殘酷はどこから來る、
またしてもごうと吹く風、
またしてもよよと泣く聲。
發狂者の獨り言
戀は死よりも鋭《するど》い、
悲しい玻璃《はり》へ木立《こだち》の浮模樣《うきもやう》、
朗《ほがら》かな空、涙まじりの小鳥のおしやべり、
『御早やう、今日も御天氣で御座います……』
それつきりの沈默、玻璃のフラスコ壜、
化學者が或る夜、紫の星を見た折り不圖感じた物思ひから、
入れた朱斑《あかぶち》の目高魚一疋……
『ああ何ゆゑのこの朱ぞ、
トランプのハートの黒い變色《へんしよく》、
品川沖の外國廢船の赤錆《あかさび》、
此の胸の奧に潜《ひそ》む云ひやうない苦しさ、
死の感激……』
朝風吹いて庭の枝々きしめけば、
君は天から天女《てんによ》のやうにふはりと飛んで來るかと思ふ……。
第三篇
感激
空しい月日のぴんぴんいとひき車、
古手《ふるて》の『人生觀』がこほんこほんと咳をして、
さて金錆《きんさ》びのした嗄れ聲、
――感激とは萬朶の火の花だよ。
東洋の毛脛あらはな蟻の國
ながいものには卷かれる國粹保存主義、
金甌無缺のわが帝土に
おう、お、わたし等の生涯はつねにずぶずぶ水浸し!
青年、青年、火の信仰、淨い熱、
わが眼は空かける大鳥のごとく此の墮落の國を俯瞰し看破しよう。
わが守り神、晴れやかな天、白い雲。
萬づ物みな新らしい芽生えの春、
わが心涸れしなびたれど、之れ思へば、
つねに死なず。
感謝
わたし共にもやがて最後の時が來て、
この人生と別れるなら、
願はくば有難うと云つて此の人生に別れませう。
灰
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