》を離れて、
吾が庭へ來て鳴け、
お前、可愛いい雌鹿。

ああうれし、うれし、
お前に此の心の文字をゑりつけよう。
ああ夜毎の夢にあらはれる文字、
心の奧底にしまつてある私の文字、
それをお前の心にゑりつけよう。

  荒廢

荒い雲のなかに
隱されてる月は、
深夜の灰色の都會を
何と見るか。
とどろに吹きまはる疾風《はやて》は、
遙かな地平線に落ちて行つて、
そこには黒い空、
もの寂びしく眠る屋根屋根の果て、
ああ下界は銀灰色《ぎんくわいしよく》に輝く太古の動物の背にも似て、
その歴史ない歴史の世を追想させる。
この中に私はあり
胸にふいご場《ば》のごときくわつ/\とした火を蓄へ、
聞くものは風に鳴る屋根、
時折り遠くで吠える犬、
ああその犬よ、何といふけたたましくも淋しい聲ぞ。
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字10、1−13−30] 20

  一人の旅人

お前を思はず秋となつて、
今はた思はず、戀を、
ねたみを!
華々しい秋口《あきぐち》の烈しい日照り、
濃い青色《あをいろ》の屋根越しの木々の、
涼しい風に搖られる午後《ひるすぎ》。

時は過ぎて行く、
はためく店々の日覆ひ。
わが行く方に
いかめしくも美しい冬の、
われを待ちつつ
豹の如く覗ふ。

ああわたしは一人の旅人《たびびと》か、
たえず人《ひと》寂《さ》びれた往還を歩み、
彼方《かなた》廣い空にわだかまる銀の雲を、
目がけて歩む、
ひとりの旅人か。

  獵師

ああ、地に敷いた落葉《おちば》、
そそり立つ骨まばらな老木《おいき》、
いま私は銃を手にして、
鳩でもない、山鳥でもない、
その梢に鳴く頬白を射てやらうと、
なぜか鐵砲をむけてゐる。

ああ、なぜ小鳥を射る、
そのうつくしい聲の主を?
その聲があんまりよいもんだから、
私を魅いてしまふんだから、
原あり、
透きとほつてるたまり水あり、
木あり、巨大な枝をさし交してる老木《おいき》の林があり、
白い雲のなかに見える瑠璃色のおだやかな空あり、
枯れ草日に輝く草の床あり、
その景色にあの小鳥の聲があんまりするどく、心持よいもんだから
わが心に頭をもたげたいたづら心が、
お前ののどをねらはせたのだ。

私はお前を打ちはしない、
ただお前がこの野原一面の沈默を破つて、
不意に囀り出すとき、
私はそのするどい心持よさに釣られて、
無心に銃の筒先きをむけるのだ。
あゝするどい秋の野の朝景色、
この世はなぜに斯うもうつくしい。
[#地から1字上げ]5 ※[#ローマ数字8、1−13−28] 26

  船乘の歌

黄金《きん》の眼をむく般若《はんにや》の女王は、
邪慳でもない、意地惡でもない、
もつて生れた闊達な氣象で、
よこ波あびせて打つ船舷《ふなばた》、
船はどんどと太鼓打つ。
寢てゐるおれ達をあやすかの樣に、
皆《みんな》に子守唄でもうたつてくれるかのやうに!

ほんとに考へて見れば昨夜《ゆうべ》の荒《しけ》もあれは荒《しけ》でなかつたのかも知れない、
あいつの烈しい氣まぐれに過ぎなかつたのかも知れない。
うるしなす暗間《やみま》を吹きまくつて行く疾風《はやて》、
横沫きなす雨、
おれはその中で甲板を洗ふ波を見た、
波にさらはれた一つの人影を見た、
煙突から吹き散らかす火の子を見た、
斷末魔の病人のお祈りの手のやうに、
無神經に暗間にふられてる二本のマストも見た。

あれはいま皆どこへ行つた、
夢である、
消えてしまひ、しかも胸にいつまでも實在する惡夢である。
夢は實在する、
そして人生は常に變轉する夢にほかならない。

おもうても汗が出る、
あの暑くるしさ、
朱線の印度航路、
紅海の熱湯浴、
あれも夢である、
ただのこる、
あのいきれだつた大氣の心ゆくばかり抱きしめた感覺、
フランス女の淫賣婦《ぢごく》にもまさるあの抱きしめ樣!

海はおれ達を抱《いだ》く、
おれ達をふり動かす、
おれ達をキツスする、
ときには脣を噛む、
咽喉をしめる、
狂氣的に、猛烈に!
ところが今はまた凪いでゐる、
魔睡的な海、
夢見ごこちの海、
おれ達を靜かにあやし、
おれ達を靜かにゆすぶり、
おれ達を靜かにうとつかせ、
おれ達を靜かに熟睡へおくる。

凪いだ空には神でも居睡つてゐさうだ、
ただ青くひろびろと光いつ杯に漲り、
中天にポカンと輝く晝の日の黄金《きん》の、
おれはその黄金《きん》のみでない、
そばに輝く日中の金星も見つけた。

ここでおれ達船乘りの哲學を一つ語らう。
陸の世界は固くるしい、狹まくるしい、重くるしい、
おれ達船乘りには人生は善いもない、惡いもない、
も一つ上手《うはて》の得體《えたい》の知れないものだ、
色氣《いろけ》のない男まさりの處女《きむすめ》の女王、
美しく凄いアマゾンはおれ達のお主《しゆ》だ、

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