夢のやうに定《さだ》かに、心のなかに取り入れ納めることが出來る物ではなからうか。

 わたし等一家が港へ移住した頃、わたし等一家といふものは至極あはれな、みじめな、大工|生活《ぐらし》をしたものだと云ふが、それに關しては、わたしの記憶はまだまだ二三年後の年のものに、初めて薄ぼんやりと現はれて居る。それよりまづ最初のものとして殘つてゐるものは、あの海の記憶、つまり前述のあの荷車の旅で母に抱かれて行つた途上、多分吸ひ飽きた母の乳房もその時離し、眼を荷車の前方にやつて、折り柄山脈が切れはじめて横顏をあらはしにこやかに彼方《あなた》へとひろがるのを見たあの青い海の記憶である。八歳《やつつ》九歳《ここのつ》後から暗い魂に浸る運命となつたわたしに、この記憶がわたしの一生の或る頃の年代、つまりこの人生を絶望し見限つてゐた二十五六の厭世時代に、不意に蘇つて來てくれたことは、當時のわたしの救ひの主となつた。なぜなら此の美しい海の景色に瞬間に溺れたわたしの心の中には、このわたしといふ人間の持つて生れた性質が、その時そこらの道端に多分生え出してゐた青草のやうに、可愛らしく生きてゐるもので、決して厭世的なもの
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