のではないかと思はれる。濁音の多いのも日本語の昔の形であると信じる。○地方語の民謠を記述するのに、今迄のやうに音をたださず、平氣で東京語發音化することも、無自覺千萬である。○わたしの此の試作は可成り純粹な津輕の口語で書き得たと信じる。コブシの花を嘆美するあたりも、これ位の事は百姓が普通いふことで、強ひて私が詩的がつたのではない。なほこの百姓女の性質がキツイのも、津輕女性の地方性上の典型として描出したのである。○なほ本二篇の假名づかひは片假名は純發音式、平假名の分は在來の假名づかひに、私の習慣の文部省式を多少交へてゐる。○尚右試作は室生犀星、芥川龍之介氏が後援の月刊雜誌「驢馬」の大正十五年五月特別號に發表されたもので校正に骨の折れる此の樣な作品を當時喜んで發表の勞を採つて戴いた同人諸君にこゝで尚改めて感謝の意を表したい。――大正十五年三月二十六日上京中、深川に於て
[#ここで字下げ終わり]

  雪の回想

    1

 春の季節をわたし等雪國人種の特に待焦れることは、雪に半年もとざされるからだと云ふぐらゐの事では足りない。寧ろも一つ進んで言ひたいことは、大自然が見せた無類の威力から、吾々人間が放されたいことから起る本能のやうに強い欲求だ。實際また雪ぐらゐ此の威力のすばらしい表現はなからう。暖國人種たる諸君も大自然の威力なら知つてゐると、胸をそらして言ひ放す人があるかも知れないが、諸君の出逢ふそれなぞは、一寸考へまはして貰ひたい、幸福の絶頂か、大自然の氣まぐれ藝當かの二つに過ぎぬ。
 熱帶だつてその暑さのために焦殺《やきころ》されたといふ人はなく、却てそこの植物の豪奢な繁茂のもとに、禁慾と瞑想の樂しい宗教が生れた。一方自然がそこに示す威力の氣まぐれとしては、洪水、惡疫、毒蟲がある。だが何だそれは? 大自然がそれで人間の造營物を壞し、人間を屠る下から、ただちに同じぐらゐの旺盛な力で人間を殖やしてくれ、香ひの高い光澤に富む生活資料をバラ撒くではないか。
 雪はさうではない。一年のうちきまつて一定季節のもとに降り出し、地球の殆ど半ばを白く凍らせる。それは毎年規則ただしく、嚴格に、必然にやつてくる。世界はこの季節の間、北に向つて進むかぎり、どこまで行つても白いもののほか見るよしもない寂寞とした、單調な、人間にとつて極限までも無力なる死の擴がりである。この決定的なる必然さと無力さ! ここに大自然の底の知れない森嚴と壓迫とを内容とする威力が示される。
 人はこの下に膝を屈して「無」の中にぢつと生活するしか術《すべ》がない。それは限りのない「無」である。果てしのない「無」である。しかしこの「無」の中に面《つら》つき合せて默つてゐるしか他に術がないのである。

    2

 眞つくろな空から粉のやうな雪が、誰かの言葉だが、まるで箕《み》から撒くやうに降つてくる。
 廣野の遠くの森がこの雪の中に煙つて見えるのが朝の九時、邊りが軈て雪の他に何ものも見えなくなるのが正午、軈て晩になると、降り積つた雪の重さで、夜の十時頃から家の大屋根の棟が鳴り軋む。幽嚴きはまりない思ひに打たれる。
 外に出て見る。月が中天にかかつて密雲にとざされ、あたりには朦朧とした光を放射してゐる。村の通りも見えず、木も見えず、家も見えない、ただ無數に無限にサラサラと降りつむ煙のやうな、靄のやうな粉雪をおろしてくるだけである。
 こんな晩、その朦朧とした空に虹が出てゐるのを見た覺えがある。

    3

 ……だが恁んな靜かな雪降りは一と季節にもさうたんとない。大抵は吹雪が三日四日、ときには七日も凄まじく吹きつづける。兩方の親指と人差指とで作つた、四角ぐらゐの大きさのガラス窓から、風の轟々と鳴る戸外をのぞいて見る。そこは白晝ながら朦朧として、丁度海の底でも見るやうに薄ぐらく、森の骨まばらな巨木が昆布のやうに根本《ねもと》から搖らめいてゐるのが眼に入る。
 顏を窓から離して、また今までとおなじ姿勢にかへる。わたしはこんな日何も讀まず、朝から書齋の爐のはたに默々としてうづくまつてゐる。晝めしを食べたあとも、また書齋にかへると同じ姿勢で默々としつづけてゐる。別に何も考へるでもない、ただ引きりなしの風音に耳を傾けながら、心のさまよつて行くころは、今の人間の世から何千年か先き、何萬年か先きの原始の境涯である。
 北緯四十二度、時節は一月初め、歐羅巴や北米ゾーンと違つて亞細亞はこの緯度で十分寒く、首都の東京を離れる二百里で、「白色恐怖」は思ひの儘に威力を振ふ。

    4

 人間はこれに對して最初は抵抗する。雪が降るとまるで本能の目ざめのやうに、武者ぶるひして振ひ立つ勇猛な心さへおこる。だが大自然に正面から、そして不用意にあらがうて何の利益のないことは、どんな農民の無智なものも知つて
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福士 幸次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング