ゞ》の腰《こし》」を唄ひだした。
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【「百姓女の醉つぱらひ」の東京俗語譯】 お前の亭主は幾歳だい。私のは今年二十六だよ。何を笑ふんだネ。お前の母親《おふくろ》の姉だつて、二十も年下の男をもつたぢやないか。わたしはそんなに違やアしないよ。本當に嬉しいね、雪が融けてサ、鯡を日當りの屋根に干す頃になると、田圃の仕事が忙しくなつて、夫《うち》と晝間まで田をこねまはして、そから田の畔へあがつてサ、御飯も食べるし、酒も藥鑵に仕込んだのを二人で仲よく飮むんだよ。コブシの花でも、蕗の薹の花でも、彼處の田の畔から見れば結構この上ない花見なんだよ。弘前《ひろさき》の公園の觀櫻會見たやうに、白粉の香ひがプンプンするやうなものぢやないよ。へん! 二十六の亭主をもつたつて何がキマリが惡いんだよ。わたしのやうに十年も後家を立ててサ、よその家から子供を貰つて、藁の上から育てて見ても(作者註、吾が津輕地方の農村では、今なほ産婦は板敷に藁を敷いて子を産む習慣になつてゐる)、羸弱《ひよわ》くてあんな病氣に取り憑かれて死なれて見ると、派立(本村《もとむら》の分村)の目病み婆見たいに八十の身空で、世話になる孫子にも嫁にも皆死なれて、村役場から米だの錢だのを貰つて、厩《ウマヤ》よりもまだ汚い小屋へ這入つてヨ、乞食をして暮らす樣子が眼に見えて來ようぢやないか。へん! 他人に惡口をいふ隙に、自分の飯茶碗の蠅をお拂ひよ。十年も後家を立てて、彼方の嚊ア此方の嚊アから姦男《マヲトコ》をしたの、亭主を取つたのと呶鳴りこまれて、年がら年中おこらせてゐたつて何になるよ。若くたつてわたしを好きだといふから、連れ添つた夫婦だあね。十年も死んだ亭主に義理立てて、この上なに惡口言はれる事があるんだらう。蠅をお拂ひよお前さんの飯の上の蠅をお拂ひよ。はゝゝゝゝゝ。いや、ステキだね、ステキだねえ、春になつて、鯡を干して、馬を出して、春風の吹く中で田をこねて、はゝゝゝゝゝ、お晝になれば、コブシの花を眺めてお酒を飮んでそれからまたノツシノツシと田へ這入つて、はゝゝゝゝ「婆の腰ア、ホウイヤ、ホウ……、婆の腰ア、婆の腰ア、ホウエヤ、ホウ……」
斷り書 ○地方主義の作家はその地方語をもつて創作することを主張するものである、詩、小説、戲曲すべて之れを實行せよといふ。私の右の一篇はその最初の試みを散文詩の上でしたものである。赤子の時より精神に刻みつけられたる言語を離れて、魂に眞實に響く文學的活動はない筈である。作者に於て然り、また同郷人間に於て然りである。○一方地方主義者は國内の各地方語を主宰し、民族全體の文明を負うて鍛へられたる、乃至鍛へられつつある共同語(今日普通に標準語と云はれてゐるもの)をも尊重する。そして文學的に成熟されたるそれの種々の機能、形式をも尊重する。だがそれはそれ、之れは之れである。○共同語は國語の代表的な位置に立つものであるが、國語の全體ではない。地方語、少くも方言をも併せてそれは國語である。○多くの日本人が間違つて讀んでゐるやうに、三保の松原を Mio−no−matsubara と發音しては三保の松原の情景の出ないことは、一度その土地に行つたことのある者の經驗することである。その土地では三保を Miho と h の音を響かせる。上州の吾妻郡に對するアヅマ郡、利根上流の吾妻川に關するアヅマ川も同樣な謬りの例(正しく發音すればアガツマ郡、アガツマ川)である。聲音は言葉の存在の形體である。從つて聲音を無視して言葉はない。○吾日本に於ける漢字の使用は、日本人の言語上の意識を甚しく毀損した。なぜなら漢字は聲音を無視して成つた觀念上だけの指表、即ち目じるしに外ならないからである。○音表文字も觀念の指表たるに止まる場合がある。事實また音表文字も萬國音表文字さへ聲音の完全な寫眞ではない。だが上海英語、英領植民地英語を在來の英語綴字法で記述しても、そこに何等かの土地の臭味を現し得、また桃山時代出版の伊曾保物語平家物語の歐字本がその時代生活を現してゐる。○言葉は國の手形である。そして生活の事實上の運搬をなす。○聲音に不注意な在來日本人は地方語なるものに至つて無自覺である。例へば東北のズウズウ辯と言ふごときも東北地方にはズウズウ音の分布は、何ぞ計らん東京の御膝下の茨城地方に始つて、會津地方を通じ、仙臺山形地方に北上してゐるのに止まり、南部、秋田、津輕の三地方には痕跡がないのである。この點東北のズウズウなる通り言葉は意味をなさない。○これに反し東北には他の地方にない正確な音、例へば「ハ」と「フワ」、「ガ」(喉音)と「ンガ」(鼻音)の如きも明瞭に區別する。東北有名の「シ」と「ス」の混同の樣なのも、實は混同ではなくてそのどちらにも屬せぬ一音 si である。日本語には昔シとスの區別がなかつた
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