などが寂しい睡《ねむ》けに渦卷いて
私は何時《いつ》からとなく寢づいて今またふと目が覺めた
蝋燭が遠い銀色の過去をちらちらさせながら燃えてゐる
しつとりと濕《しめ》つた悲嘆《なげき》が私の影法師を深く迷はしてゆく
ひそやかな葉摺《はず》れが空中に消えると
其のあとしんとして雨氣《あまけ》が窓から溢れ動く
嵐はあらゆる追憶を殘して夙《とう》の大往昔《おほむかし》に死んでしまつたらしい
雨樋《あまどひ》からはぽとりぽとりと絶《た》え絶《だ》えに落つる水音《みづおと》
あれは何時《いつ》迄も止む事なく落つる孤獨の響きだ
天井窓《てんじよまど》からはしめやかに空氣にまじる雨氣《あまけ》の薄明り
あれは濡れた瞳を投げる底なしの鏡だ
白い敷物は半睡《はんすゐ》の奧におしひろがり
蒼白《あをざ》めた鏡は悲哀《かなしみ》の室《へや》を見つめて
この一夜《ひとよ》の魂《たましひ》をまもるらしい
ああ眠つた間《あひだ》も蝋燭の焔をちらちらさしてくれ
ひそやかな葉摺れにうつつなく私が思ひは深い淵をばなきめぐる
ああ眠つた間《あひだ》も焔をちらちら鏡へうつしてくれ
ひそやかな葉摺れに消え入る思ひして私の夢は蒼白《あをじろ》い眼を沈めてゆく
※[#ローマ数字2、1−13−22]
嵐は世界を靜かな涙と追憶にした
私の睡眠《ねむり》の底には
あふれる河が流れてゆく
私の魂はつめたく浸《ひた》されて
水音に風は泣き
其の魂を開いてくれと
葉摺《はず》れは空中にそよぐ
私にはあの葉摺れのひそめきは捉《とら》へられない
胸へ落ちて來る闇黒《くらやみ》のほのめきには果《はて》がない
水に浸されて身慄《みぶる》ひする梢の繁り
すすり泣きながら消えてゆく風には果がない
※[#ローマ数字3、1−13−23]
私の追憶は何時《いつ》の間にか白い餌魚を沈めてゐる
盲《めし》ひた中を手探《てさぐ》りで夢とうつつに歩いてゆく
雨《あま》あしがたち消えながらも何處《どこ》の樹《き》からとなく私の膚《はだ》を冷してゐる時、ふと紅《あか》い珊瑚の人魚が眞蒼《まつさを》な腹を水に潜らせる
鏡はまたも永遠の暗となり
老年の追憶は吐息をつく
そして蝋燭の焔がちらちらする
あれは屹度《きつと》物言はぬ幾千年の魚だらう
老衰者《らうすゐしや》の悔や執念《しふねん》を悲哀の箱で胸をふさがせ
泣いてるやうな笑つてるやうな死顏《しにがほ》を
夜長の眠られぬ夜ちらちら鏡へうつすのだ
霧雨《きりさめ》の空洞《ほらあな》に響きなき鏡
その鏡は三本の格子を滲《にじ》ましてぼんやりと天井に涙ぐむ
半睡の室内では蝋燭がちらちらと
遠い水音や葉摺れの憂愁や其の空中に消えて行く幾千年の沈默に
銀の影を薄く壁にそよがしてゐる
何處《どこ》かでは固《かた》パンをかじる鼠が練絹《ねりぎぬ》のカアテンにひそんで啜泣《すすりな》いてゐるだらう
或る温室では釣鐘草《つりがねさう》や葵《あふひ》や棕櫚《しゆろ》が頭《かぶり》を振つてゐるだらう
あらゆる時間は青ざめた歴史を編みながら雨中を押流されてゆくだらう
休止した時計の振子《ふりこ》は
永遠の底へ沈んでゆき
私の生命《いのち》は樽《たる》のやうに冷たい空洞《ほらあな》を流れてゆく
發車前 ――六月二十七日
低い空はぼんやりと街の灯《ひ》をうつして
薄月に小雨《こさめ》が降り出した
夜行列車の振鈴《ベル》は鳴り渡つて
一時に動《どよ》みはじめる群集の呼び聲
ああ私はどこへゆく?
ぞろぞろと改札口を出る群集
かすかな眩暈《めまひ》からふと目がさめて
私はベンチを離れた
ああ私はどこへゆく?
ただ一人うちしをれて歩むプラツトフオオム
鎖《とざ》した歎きは何時までもほどけず
ただ一人うちしをれて歩むプラツトフオオム
人混《ひとご》みにときめかぬ處女の胸
其の胸は病みおとろへた私の胸にある
其の悲哀《かなしみ》は時を打つ振子《ふりこ》のやうに
術《じゆつ》なげに力なく時を打つ振子のやうに
思ひ出しては鉦《かね》をならす
その追憶は病みおとろへた私の胸にある
ああ、あなたは今どこにゐる?
うすむらさきに吐息する白熱燈《アークライト》
あなたの微笑した顏はどこにある
人影がいり亂れる蒼青《まつさを》なプラツトフオオム
たよりない人生に
嘆息《ためいき》はほろびず
世にない人に
くちびるはふるへる
さびしくも唯だ一人どこへゆく?
薄月に小雨《こさめ》が降り出して
ほのあかるい夜の空
さびしくも唯だ一人どこへゆく?
一生 ――六月三十日
[#ここから4字下げ、15字詰め]
一といふ盲人《めくら》に、二といふ女盲人、悲しい生命《いのち》は其の間からうまれた
[#ここで字下げ終わり]
四番目の扉をひらいて
五番目の椅子へ座つた
六番目の燈明《とうみやう》に火をともし
七番目の女の死骸を鞭つた
そして八番目の打下《うちおろ》しにがつかりと力がぬけて
神へ悲しい哀訴《あいそ》の手をあげた
身體《からだ》は浮上るやうに淨《きよ》くかろくなり
眞黒な錦襴の帷《とばり》は九番目の祕密を垂らした
夢に照るらしい月夜はその中に薄青くけむつてゐる
星は覺束なげに天にひかつてゐる
十番目の吐息《といき》をすると
古めかしい記憶がしんとして行つた
十一番目の火をともすと
月光はおぼろげな火陰《ほかげ》を搖《ゆら》めかした
十二番目の大理石像の背後《うしろ》には
私にいきうつしの老人が俯向《うつむ》けに倒れてゐる
眞白にしをれた薔薇は
うろ覺えの記憶をにほはしてゆく
十三番目の空中には
一つの棺《ひつぎ》が星雲《せいうん》のやうに浮いてゐる
悲しい一生の悔恨《くい》や悲嘆《なげき》や追憶《つゐおく》は
其處に匿れて齒がみしてゐる
捉へがたい鎖《くさり》になげいて
私は十四番目の哀訴の手をあげた
智慧の實を食べてより ――七月二十四日
栗の樹の下を歩けば
ふかい落葉の中に
君の吐息《といき》たち
わたしの吐息たち
何處で鳴くともしれぬ山鳩の聲は
梢に唯だ一つ殘る黒い葉のやうにふるへる
もの寂しく遠吠えする果樹園の番犬《ばんけん》
突然鋭く發射する連發銃の反響
遠い山脈からは雲一つうごかず
遠いあさぎ色の麥畑のそよぎまでも
日は悲しげにしんと照らしてゐる
此の時|堪《こら》へきれないやうに君の暗い影は
空とぶ鴉《からす》のやうに私の胸へ落ちた
手錠のやうに箍《たが》のやうに
おもく呼吸《いき》ぐるしく私の胸を抱きしめた
ああまたしても私等は悔いるのか
あの遠吠をする犬のやうに
罪と苛責《かしやく》に吠えるのか
うらがれ時の果樹園に
しらじらしくもふるへる白い日の光
その薄寒い木立の奧に
犬は悲しげに吠えてゐる
鍛冶屋のぽかんさん ――七月
梨の花が眞白に咲いたのに
今日もまた降る雪交りの雨
濁り水は早口に鍛冶屋の樋《とひ》へをどり込み
眞裸《まつぱだか》な柳は手放しで青い若葉をぬらしてゐる
此處の息子はぽかんさん
とんてんかんと泣く相鎚《あひづち》に
莓《いちご》の初熟《はつなり》が喰《た》べたいと
鐵碪臺《かなしきだい》を叩《たた》くとさ
手をあつあつとほてらして叩くとさ
ああ、夢ならばさめておくれ
ぽかんさん
此の世の中に多いものは
祕藏息子のやもめ暮らし
時計の針の尖《さき》のやうに
氣の狂《ふ》れやすい生娘《きむすめ》暮らし
この年月の寒暑《あつささむさ》の往來に
私の胸は凋《しぼ》んだ花の皺《しわ》ばかり
私の胸はとりとまりない時候はづれな食氣《くひけ》ばかり
扇を持つみなしごの娘 ――七月
扇の中にみなしごは
白い虚《うつろ》な眼を閉ぢる
病氣上りの氣のやみに
まぶしく照らす赤い夕日
風にふらふらうごく雛罌粟《ひなげし》
心覺《こころおぼ》えの兩親《ふたおや》が心の何處かにあるやうに
所々《しよしよ》にきらきらと清水《しみづ》が涌く
ああパウルのやうに嚴《いかつ》くて、ペテロのやうにやさしい院長さん
私が此方《こちら》へ初めて來た日には
あのお天日樣《てんとさま》目掛けて飛んでゆく鳥みたいでした
そのくせ夜《よる》になると魘《うなさ》れたり
泣き出したり
知らぬ他國の夢を見て
暗い廊下におびえて居たり……
すべての友達に送る手紙 ――十一月
覺醒《かくせい》はそれ自身でひとつの誕生だ
ひとつの新しい靈魂の生活だ
私は餘り多くない、併し親みのとりどりに深かつた友達にかう言ひたい
私は今あなた方や、また君達のことを思ふと限りなく深い負債《ふさい》の沼にはまつて行くばかりだ
そして今頃それを言ひ出す程
私のした事はあらゆる冒涜《ばうとく》である
人の心の冒涜である
ああ私はあらゆる淨い氣高《けだか》い土地をかうして今までむだに涜《けが》して來た
今こそ自分自身の魂《たましひ》からもの言はう
私は一時乞食であつた
瞞《かた》りであつた
泥棒であつた
そして苦しく蒼ざめて氣むつかしい
つむじまがりの幽靈であつた
それに欺《だま》されたのが口惜《くや》しかつたら
皆《みんな》で手いつぱいに憎んでくれ給へ
私は人を欺した覺えはないが
自分が未だ生れないのを
生れたと思つた罪がある
そこで冒涜した
人の心を冒涜した
私はこの負債をいつ拂へよう
人に犯したこの罪は
一生ぬぐへまい
私には悲痛な深刻な魂が
今日を覺してゐる
よりどころのない、併し確な一歩が踏みだしてある
今までの死殼《しにがら》を蹴飛ばして
心から出る産聲《うぶごゑ》をあげる處だ
つむじまがりの幽靈は面變《おもがは》りして
あかく灼熱した眼を燃しながら命令してゐる
私こそ人生に貸がある
母胎のかげでうごめいて居る
私こそまことの怖しい債鬼だ
人生の奧にその貸が匿してある
抛《はふ》りつぱなしで貸つぱなしな
今まで知らなかつた手強い貸がある
まづ私は森林に火を放《つ》けて
ひとかたまりの野獸を追ひださう
苦しい惡鬼を吾れから振ひ落し
吾から肉體にせぐりあげる
深いすすり泣きの聲を聞かう
これこそ烈しい命だ
これ以上の眞實なライフが私にあるか
これこそ止みがたい魂の誕生だ
もはや冒涜でない
悲痛で不安な燈火《ともしび》はをやみなく明滅する
とりどりに美しく寶石はときめいて
もろもろのさびしい涙を薄暗がりでときあかす
私の心はいつもただひとつで
不思議な斷末魔の啜泣きに耳をそばだてる
私の心はいつもただひとつで
皿の油火《あぶらび》はをやみなく明滅する
これこそ私のあげる聲だ
せぐりあげる産聲だ
魂はめざめればめざめる程悲痛になり
或る宣告が耳にとどく
私は怖しい債鬼だ
しどろもどろの影がまはりの壁にうつる
足どり亂して響きのない影が街中《まちなか》をふみまはる
薄白い焔はその間をやみなく油皿の中からゆらめいて
斷末魔のすすり泣きに耳を澄ます
ああ私は怖しい債鬼だ
發生 ――十一月
[#天から4字下げ]女よ爾の罪は赦されたり『馬太傳』
僕は別な空氣をすふ
別な力を感ずる
僕自身はもう草だ
新しい發生だ
突きあたりつきあたり
そして突き破り
突きやぶり
吾等の行く先きの魂をつかみたい
途徹《とてつ》もない世界の果《はて》に
眞實な産聲《うぶごゑ》をあげて
底力ある目玉をでんぐりかへしたい
遠い故郷 ――十一月
時計はまたも黒い點線《てんせん》を
つづくつてゆく
私の夢はあてもなく
だまつて空《から》まはりをして
その長い低い街をうろつきあるく
商店の屋《や》の棟《むね》の間からは
海色の冷たい空が
一とすぢになつて覘いて居る
並木はいつのまにか
葉を落しつくして
くろぐろと淋しい枝を張りまはしてゐる
私は心のすみからすみへ嘆息した
そして日のありかも知れぬ冬の白い空から
遠い遠い空氣を吸つた
五體にしみる遠い遠い空氣を吸つた
冬の日暮 ――十一月
吹きわたる風はとどまらず
黒いたそがれの町外れに
ガスはほとつき出す
かわいた郊外の芝原に霧はながれはじめ
とある一軒家の二階からは
ぼろ
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