、一面解決の端緒《たんちょ》が見えそうになると共に、一面問題はいよいよ大きくなるでしょう。しかし縦《よ》しやそんな風に根本の観念は生れ変って来るかも知れないとしても、宗教上に寺院の破壊が大事件《たいじけん》であると同じわけで、固まった道義的観念の破壊も大事件に相違ありません。それですから、何故《なぜ》お前は家常茶飯のような危険極まる作を翻訳するのだと云う人もありましょう。そういう人の立脚地から考えて見たら、危険かも知れません。しかしこれを危険だとして公《おおやけ》にしないとすれば、トルストイでもイブセンでも、マアテルリンク、ホフマンスタアルでも、現代的思想の作というものに、一つとして翻訳して好いのは無いのです。現代文学の全体を排斥しなくてはなりません。文学上の鎖国を断行する必要があります。そんならその鎖国を実行しようと思ったら、出来るでしょうか。あなたはどう思いますか。これも大問題ではありませんか。こん風に考えて行《ゆ》けば、問題は問題を生んで底止《ていし》する所を知らないのです。お尋《たずね》になるから、こんな事も言います。自分の出すものに講釈を附けて出すような事は、嫌《いや》だから、なるたけしないようにしています。人はおりおりそういう事をしますが、わたくしはそれを見ると不愉快に感じます。何でも芸術品は誰《たれ》の作とも、どうして出来た作とも思わずに、作|其物《そのもの》とぴったり打附《ぶっつ》かって、その時の感じを味いたいのです。わたくしの出す物なら、製作でも翻訳でも、それで人がなんにも感じてくれなければ、それで宜《よろ》しいのです。多くはそういう風で済んでしまうだろうと思います。こん度訳した家常茶飯だって、黙って出してしまえば、恐らくは誰も何とも思わずにしまいましょう。読者も家常茶飯として食べてしまいましょう。現代文学のあらゆる翻訳は皆《みな》そうなのです。そうではありませんか。
記者。伺って見れば、そんな物ですね。讃否《さんぴ》は別として、現代思想というものが、幾分か領会せられる媒《なかだち》になるとすれば、雑誌に家常茶飯を出すのも、単に娯楽ばかりでなくなりますね。
森。そうですとも。あなたが讃否と云われました、その讃否ですがね。勿論《もちろん》翻訳をするものが、原作の思想に同意しているか、いないか、同意しているなら、全部同意しているか、どこまで同意している
前へ
次へ
全41ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
リルケ ライネル・マリア の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング