でございますか。
画家。(急に。)ええ。
令嬢。そう仰ゃれば、わたくしがこのお部屋へ参りまして、心付いた事がございますから、御遠慮なくそれを申して見ましょうか。
画家。何んでしょう。あなたがこの部屋へ這入って、直《すぐ》に気の付いた事があるというのですね。
令嬢。ええ。あなたの仰ゃるような幸福が。
画家。そんな幸福がどこかにあるというのですか。
令嬢。ええ。何んだかこのお部屋の空気の中に、そういう幸福の影が漂っているようでございますね。
画家。ふん。
令嬢。どうもわたくしには、そんな風に感じられますの。
画家。今でもですか。
令嬢。(徐《しずか》に。)なんでももうよほど前からの事でございますね。それがあなたには分らないでいるのでございましょう、何んでもあなたの生活にぴったり寄添っているものがございますように思われますの。その隠れた幸福と、あなたの生活とは、息が合っていますように、一つ呼吸をしていますように思われますの。思い違いかも知れません。こんなのが女の直覚とかいうものでございましょう。しかし考えて御覧なさいまし。お思い当りあそばす事がありは致しませんか。(画家|首《こうべ》を垂る。令嬢は徐《しずか》に画家の傍《かたわら》より離れ去る。)ね。何んでもいつもあなたのお傍《そば》にいて、あなたのお目に留らないような人がいるのではございませんか。その人は余りあなたの生活に密接な関係を持っていますので、あたたはそれを家常の茶飯のように思召てお気をお留めあそばさないのではございませんか。よくお考えなすって御覧なさいまし。ね。(徐《しずか》に戸の口に歩み寄り、徐《しずか》に戸を開き、退場。)
画家。(物思いに沈みて凝立すること暫くにして、忽然夢の覚めたるが如き気色《けしき》をなし、四辺《あたり》を見廻す。ようようにして我に返る。)ヘレエネさん。(戸口に走り寄り、荒らかに戸を開け、叫ぶ。)ヘレエネさん。(画家は暫く耳を聳《そばだ》ている。四辺《あたり》はひっそりとして物音無し。画家は再び戸を鎖し、跡に戻り、物を案ずる様《さま》にて部屋の内をあちこち歩き、何かそこらの物を手に取りては置き、また外の物を手に取りては置き、紙巻を一本取りて火を付け、一吸《ひとすい》吸い、忽《たちま》ちそれを投げ捨て、右手の為事机に駈け寄り、慌ただしく物をかき始む。暫くして何事をか口の内にてつぶやき、癇
前へ 次へ
全41ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
リルケ ライネル・マリア の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング