なかったんだろうよ。(立ち上る。)
モデル。(また悲し気になる。)そうでございますね。きのうまでは夢にも心付かない事があるものでございますね。
画家。そうさ。人生はそうしたものだ。そこが人生の美しい処なのだよ。思いがけない処がなあ。(間。)
モデル。わたしのお父《とっ》さんがよくそう云《い》いましたっけ。思いかけずに死ぬるのが一番美しい死ですって。
画家。(娘の顔を見る。)何んだってそんな事を思い出したのだ。
モデル。つい思い出しましたの。
画家。お前にはそんな暗黒面でない、光明面の思い出はないのかい。
モデル。(何か言わんとして止《や》め、詞急に。)しかしわたしはもう。
画家。もう行くのかい。またおいでよ。
モデル。(二三歩|行《ゆ》きかかりて戻る。)もう当分伺いませんわ。
画家。なぜ。
モデル。でも当分御一しょの。(間。)あなたのお為事はだめでしょう。
画家。(娘の方を見ずに窓の処に行《ゆ》く。)うむ。そりゃあお前の言う通りかも知れない。(突然|活溌《かっぱつ》になりて二三歩前の方へ出《い》で、独言《ひとりごと》。)そのくせゆうべヘレエネと話しているうちに直《すぐ》にでもかき始められるように思ったのだが。(娘に。)己はそのお嬢さんに、己の絵の事をみんな話したのだ。
モデル。それでは去年の十一月におかきになった画《え》の事もお話しなさいましたの。
画家。それも話した。しかしおもにこれからかく分の事を話したのだ。今までかいた絵の事は向うにみんな知れているんだから。(娘不審気に画家の顔を見る。)そういっては分るまいが、己の既往の事が向うにみんな分ったのだから、己のかいた絵も、それがどんな絵か、どんな感情の絵かという事は向うに知れているのだ。熱心に、大急ぎで、切れ切れに話すうちに、何もかも不思議に向うに分ったのだ。しかしさっきも云う通り、主《おも》に話したのは未来にかく絵の事だ。それは是非話さなくてはならなかったからな。
モデル。(小声に。)よくまあそんなに何もかも一度にお話しなさる事が出来ましたのね。
画家。そうさ。そのうちにこんな絵があったよ。移住者という題なのだ。広い、平《たいら》な畠《はた》がある。収穫の後《のち》だ。何んだかこう利用してしまった土地というような風で、寂し気に、貧乏らしく見えている。そこを人が立ち去る処なのだ。一|群《むれ》の人がぴったり迫《せ》
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