私に蘇《よみがへ》つて來る故《せゐ》だらうか、全くあの味には幽かな爽《さはや》かな何となく詩美と云つたやうな味覺が漂つてゐる。
 察しはつくだらうが私にはまるで金がなかつた。とは云へそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰める爲には贅澤といふことが必要であつた。二錢や三錢のもの――と云つて贅澤なもの。美しいもの――と云つて無氣力な私の觸角《しよくかく》に寧ろ媚びて來るもの。――さう云つたものが自然《しぜん》私を慰めるのだ。
 生活がまだ蝕まれてゐなかつた以前私の好きであつた所は、例へば丸善《まるぜん》であつた。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落《しやれ》た切子細工《きりこざいく》や典雅《てんが》なロココ趣味の浮模樣《うきもやう》を持つた琥珀色やひすい色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあつた。そして結局一等いい鉛筆を一本買ふ位の贅澤をするのだつた。然し此處ももう其頃の私にとつては重くるしい場所に過ぎなかつた。書籍、學生、勘定臺、これらはみな借金取の亡靈のやうに私には見えるのだつた。
 ある朝――其頃私は甲の友達から乙の友達へ
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング