の温泉宿なので日が翳《かげ》り易い。溪の風景は朝遅くまでは日影のなかに澄んでいる。やっと十時頃溪向こうの山に堰《せ》きとめられていた日光が閃々《せんせん》と私の窓を射《い》はじめる。窓を開けて仰ぐと、溪の空は虻《あぶ》や蜂《はち》の光点が忙しく飛び交っている。白く輝いた蜘蛛の糸が弓形に膨らんで幾条も幾条も流れてゆく。(その糸の上には、なんという小さな天女! 蜘蛛が乗っているのである。彼らはそうして自分らの身体を溪のこちら岸からあちら岸へ運ぶものらしい。)昆虫。昆虫。初冬といっても彼らの活動は空に織るようである。日光が樫《かし》の梢に染まりはじめる。するとその梢からは白い水蒸気のようなものが立ち騰《のぼ》る。霜が溶けるのだろうか。溶けた霜が蒸発するのだろうか。いや、それも昆虫である。微粒子のような羽虫がそんなふうに群がっている。そこへ日が当ったのである。
私は開け放った窓のなかで半裸体の身体を晒《さら》しながら、そうした内湾《うちうみ》のように賑やかな溪の空を眺めている。すると彼らがやって来るのである。彼らのやって来るのは私の部屋の天井からである。日蔭ではよぼよぼとしている彼らは日なた
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