、考えが変わってやめることにしたから、お願いしたことご中止ください」
 今朝彼は暖い海岸で冬を越すことを想い、そこに住んでいる友人に貸家を捜すことを頼んで遣《や》ったのだった。
 彼は激しい疲労を感じながら坂を帰るのにあえいだ。午前の日光のなかで静かに影を畳んでいた公孫樹《いちょう》は、一日が経たないうちにもう凩《こがらし》が枝を疎《まば》らにしていた。その落葉が陽を喪《うしな》った路の上を明るくしている。彼はそれらの落葉にほのかな愛着を覚えた。
 堯《たかし》は家の横の路まで帰って来た。彼の家からはその勾配のついた路は崖上になっている。部屋から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前で凩《こがらし》に吹き曝《さら》されていた。曇空には雲が暗澹《あんたん》と動いていた。そしてその下に堯は、まだ電燈も来ないある家の二階は、もう戸が鎖されてあるのを見た。戸の木肌はあらわに外面に向かって曝《さら》されていた。――ある感動で堯はそこに彳《たたず》んだ。傍らには彼の棲《す》んでいる部屋がある。堯はそれをこれまでついぞ眺めたことのない新しい感情で眺めはじめた。
 電燈も来ないのに早や戸じまりをした一軒
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