が茫漠《ぼうばく》とした堯の過去へ飛び去った。その麗《うらら》かな臘月《ろうげつ》の午前へ。
 堯《たかし》の虻《あぶ》は見つけた。山茶花を。その花片のこぼれるあたりに遊んでいる童子たちを。――それはたとえば彼が半紙などを忘れて学校へ行ったとき、先生に断わりを言って急いで自家《うち》へ取りに帰って来る、学校は授業中の、なにか珍しい午前の路であった。そんなときでもなければ垣間《かいま》見ることを許されなかった、聖なる時刻の有様であった。そう思ってみて堯は微笑《ほほえ》んだ。

 午後になって、日がいつもの角度に傾くと、この考えは堯を悲しくした。穉《おさな》いときの古ぼけた写真のなかに、残っていた日向《ひなた》のような弱陽が物象を照らしていた。
 希望を持てないものが、どうして追憶を慈《いつく》しむことができよう。未来に今朝のような明るさを覚えたことが近頃の自分にあるだろうか。そして今朝の思いつきもなんのことはない、ロシアの貴族のように(午後二時頃の朝餐《ちょうさん》)が生活の習慣になっていたということのいい証拠ではないか。――
 彼はまた長い坂を下りて郵便局へ行った。
「今朝の葉書のこと
前へ 次へ
全26ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング