の家の二階――戸のあらわな木肌は、不意に堯の心を寄辺《よるべ》のない旅情で染めた。
 ――食うものも持たない。どこに泊まるあてもない。そして日は暮れかかっているが、この他国の町は早や自分を拒んでいる。――
 それが現実であるかのような暗愁が彼の心を翳《かげ》っていった。またそんな記憶がかつての自分にあったような、一種|訝《いぶ》かしい甘美な気持が堯を切なくした。
 何ゆえそんな空想が起こって来るのか? 何ゆえその空想がかくも自分を悲しませ、また、かくも親しく自分を呼ぶのか? そんなことが堯には朧《おぼろ》げにわかるように思われた。
 肉を炙《あぶ》る香ばしい匂いが夕凍《ゆうじ》みの匂いに混じって来た。一日の仕事を終えたらしい大工のような人が、息を吐く微かな音をさせながら、堯にすれちがってすたすたと坂を登って行った。
「俺の部屋はあすこだ」
 堯はそう思いながら自分の部屋に目を注いだ。薄暮に包まれているその姿は、今エーテルのように風景に拡がってゆく虚無に対しては、何の力でもないように眺められた。
「俺が愛した部屋。俺がそこに棲《す》むのをよろこんだ部屋。あのなかには俺の一切の所持品が――
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