一人に手を曳《ひ》かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。美しかった。
「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあて[#「あて」に傍点]にしているのじゃなかろうか」そして彼は心が清く洗われるのを感じた。
 夜はその夜も眠りにくかった。
 十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝ていた。
 しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
 城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗《ぎょりん》のような光を放っていた。
 また夕立が来た。彼は閾《しきい》の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
 眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒《ポンプ》へ水を汲みに来た。
 雨の脚が強くなって、とゆ[#「とゆ」に傍点]がごくりごくり喉を鳴らし出した。
 気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
 信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかた[#「ゆかた 
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