のあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染《なじ》んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。棘《とげ》一つ立てないようにしよう。指一本詰めないようにしよう。ほんの些細《ささい》なことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱《ひでり》の多かった夏にも雨が一度来、二度来、それがあがるたびごとにやや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。
そうした心の静けさとかすかな秋の先駆は、彼を部屋の中の書物や妄想《もうそう》にひきとめてはおかなかった。草や虫や雲や風景を眼の前へ据えて、ひそかに抑えて来た心を燃えさせる、――ただそのことだけが仕甲斐《しがい》のあることのように峻《たかし》には思えた。
「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」姉が彼の母のもとへ寄来した手紙にこんなこと
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