のないその字体と感じのまるで似た、子供といえば円顔《まるがお》の優等生のような顔をしているといったふうの、挿画のこと。
「何とか権所有[#「権所有」に傍点]」それをゴンショユウと、人の前では読まなかったが、心のなかで仮に極《き》めて読んでいたこと。そのなんとか権所有[#「権所有」に傍点]の、これもそう思えば国定教科書に似つかわしい、手紙の文例の宛名のような、人の名。そんな奥付の有様までが憶い出された。
――少年の時にはその画のとおりの所がどこかにあるような気がしていた。そうした単純に正直な児《こ》がどこかにいるような気がしていた。彼にはそんなことが思われた。
それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。単純で、平明で、健康な世界。――今その世界が彼の前にある。思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界はもっと新鮮な形を具《そな》えて存在している。
そんな国定教科書風な感傷のなかに、彼は彼の営むべき生活が示唆《しさ》されたような気がした。
――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。
寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。その昂奮がやむと道端でもかまわないすぐ横になりたいような疲労が来る。そんな昂奮は楓《かえで》の肌を見てさえ起こった。――
楓樹《ふうじゅ》の肌が冷えていた。城の本丸の彼がいつも坐るベンチの後ろでであった。
根方に松葉が落ちていた。その上を蟻《あり》が清らかに匍《は》っていた。
冷たい楓《かえで》の肌を見ていると、ひぜん[#「ひぜん」に傍点]のようについている蘚《こけ》の模様が美しく見えた。
子供の時の茣蓙《ござ》遊びの記憶――ことにその触感が蘇《よみが》えった。
やはり楓の樹の下である。松葉が散って蟻が匍《は》っている。地面にはでこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]がある。そんな上へ茣蓙《ござ》を敷いた。
「子供というものは確かにあの土地のでこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]を冷たい茣蓙の下に感じる蹠《あしうら》の感覚の快さを知っているものだ。そして茣蓙を敷くやいなやすぐその上へ跳び込んで、着物ぐるみじか[#「じか」に傍点]に地面の上へ転がれる自由を楽しんだりする」そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。
「やはり疲れているのだな」彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。
[#ここから2字下げ]
「私はおまえにこんなものをやろうと思う。
一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起こり、風が吹いて来ると漣《さざなみ》をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。
もう一つは窓掛けだ。織物ではあるが秋草が茂っている叢《くさむら》になっている。またそこには見えないが、色づきかけた銀杏《いちょう》の木がその上に生えている気持。風が来ると草がさわぐ。そして、御覧。尺取虫が枝から枝を葡《は》っている。
この二つをおまえにあげる。まだできあがらないから待っているがいい。そして詰らない時には、ふっと思い出してみるがいい。きっと愉快になるから。」
[#ここで字下げ終わり]
彼はある日葉書へそんなことを書いてしまった、もちろん遊戯ではあったが。そしてこの日頃の昼となし夜となしに、時どきふと感じる気持のむずかゆさを幾分はかせたような気がした。夜、静かに寝られないでいると、空を五位が啼《な》いて通った。ふとするとその声が自分の身体のどこかでしているように思われることがある。虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。
「はあ、来るな」と思っているとえたい[#「えたい」に傍点]の知れない気持が起こって来る。――これはこの頃眠れない夜のお極《きま》りのコースであった。
変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに運動する気配を感じさせた。厖大《ぼうだい》なものの気配が見るうちに裏返って微塵ほどになる。確かどこかで触ったことのあるような、口へ含んだことのあるような運動である。廻転機のように絶えず廻っているようで、寝ている自分の足の先あたりを想像すれば、途方もなく遠方にあるような気持にすぐそれが捲き込まれてしまう。本などを読んでいると時とすると字が小さく見えて来ることがあるが、その時の気持にすこし似ている。ひどくなると一種の恐怖さえ伴って来て眼を閉いではいられなくなる。
彼はこの頃それが妖術が使えそうになる気持だと思うことがあった。それはこんな妖術であった。
子供の時、弟と一緒に寝たりなどすると、彼はよくうつっ伏せになって両手で墻《かき》を作りながら(それが牧場のつもりであった)
「
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