芳雄君。この中に牛が見えるぜ」と言いながら弟をだました。両手にかこまれて、顔で蓋《ふた》をされた、敷布の上の暗黒のなかに、そう言えばたくさんの牛や馬の姿が想像されるのだった。――彼は今そんなことはほんとうに可能だという気がした。
田園、平野、市街、市場、劇場。船着場や海。そう言った広大な、人や車馬や船や生物でちりばめられた光景が、どうかしてこの暗黒のなかへ現われてくれるといい。そしてそれが今にも見えて来そうだった。耳にもその騒音が伝わって来るように思えた。
葉書へいたずら書きをした彼の気持も、その変てこなむず痒《がゆ》さから来ているのだった。
雨
八月も終わりになった。
信子は明日市の学校の寄宿舎へ帰るらしかった。指の傷が癒《なお》ったので、天理様へ御礼に行って来いと母に言われ、近所の人に連れられて、そのお礼も済ませて来た。その人がこの近所では最も熱心な信者だった。
「荷札は?」信子の大きな行李《こうり》を縛ってやっていた兄がそう言った。
「何を立って見とるのや」兄が怒ったようにからかうと、信子は笑いながら捜しに行った。
「ないわ」信子がそんなに言って帰って来た。
「カフスの古いので作ったら……」と彼が言うと、兄は
「いや、まだたくさんあったはずや。あの抽出《ひきだ》し見たか」信子は見たと言った。
「勝子がまた蔵《しま》い込んどるんやないかいな。いっぺん見てみ」兄がそんなに言って笑った。勝子は自分の抽出しへごく下らないものまで拾って来ては蔵い込んでいた。
「荷札ならここや」母がそう言って、それ見たかというような軽い笑顔をしながら持って来た。
「やっぱり年寄がおらんとあかんて」兄はそんな情愛の籠《こも》ったことを言った。
晩には母が豆を煎《い》っていた。
「峻《たかし》さん。あんたにこんなのはどうですな」そんなに言って煎りあげたのを彼の方へ寄せた。
「信子が寄宿舎へ持って帰るお土産《みやげ》です。一升ほど持って帰っても、じきにぺろっと失くなるのやそうで……」
峻が語を聴きながら豆を咬《か》んでいると、裏口で音がして信子が帰って来た。
「貸してくれはったか」
「はあ。裏へおいといた」
「雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで」
「はあ。ひき込んである」
「吉峰さんのおばさんがあしたお帰りですかて……」信子は何かおかしそうに言葉を杜断《とぎ》らせた。
「あしたお帰りですかて?」母が聞きかえした。
吉峰さんのおばさんに「いつお帰りです。あしたお帰りですか」と訊《き》かれて、信子が間誤《まご》ついて「ええ、あしたお帰りです」と言ったという話だった。母や彼が笑うと、信子は少し顔を赧《あか》くした。
借りて来たのは乳母車だった。
「明日一番で立つのを、行李乗せて停車場まで送って行《い》てやります」母がそんなに言ってわけを話した。
大変だな、と彼は思っていた。
「勝子も行くて?」信子が訊《き》くと、
「行くのやと言うて、今夜は早うからおやすみや」と母が言った。
彼は、朝も早いのに荷物を出すなんて面倒だから、今夜のうちに切符を買って、先へ手荷物で送ってしまったらいいと思って、
「僕、今から持って行って来ましょうか」と言ってみた。一つには、彼自身体裁屋[#「体裁屋」に傍点]なので、年頃の信子の気持を先廻りしたつもりであった。しかし母と信子があまり「かまわない、かまわない」と言うのであちらまかせにしてしまった。
母と娘と姪《めい》が、夏の朝の明け方を三人で、一人は乳母車をおし、一人はいでたち[#「いでたち」に傍点]をした一人に手を曳《ひ》かれ、停車場へ向かってゆく、その出発を彼は心に浮かべてみた。美しかった。
「お互いの心の中でそうした出発の楽しさをあて[#「あて」に傍点]にしているのじゃなかろうか」そして彼は心が清く洗われるのを感じた。
夜はその夜も眠りにくかった。
十二時頃夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝ていた。
しばらくするとそれが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりするとそれはまた町の方へ過ぎて行った。
蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚繰った。
城の本丸に電燈が輝いていた。雨に光沢を得た樹の葉がその灯の下で数知れない魚鱗《ぎょりん》のような光を放っていた。
また夕立が来た。彼は閾《しきい》の上へ腰をかけ、雨で足を冷やした。
眼の下の長屋の一軒の戸が開いて、ねまき姿の若い女が喞筒《ポンプ》へ水を汲みに来た。
雨の脚が強くなって、とゆ[#「とゆ」に傍点]がごくりごくり喉を鳴らし出した。
気がつくと、白い猫が一匹、よその家の軒下をわたって行った。
信子の着物が物干竿にかかったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていたゆかた[#「ゆかた
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