ほんとうらしい。
そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩きつけられた。痩我慢を張っているとすれば、倒された拍子に地面と睨《にら》めっこをしている時の顔付は、いったいどんなだろう。――立ちあがる時には、もうほかの子と同じような顔をしているが。
よく泣き出さないものだ。
男の児《こ》がふとした拍子にこの窓を見るかもしれないからと思って彼は窓のそばを離れなかった。
奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光りながら過《よぎ》ってゆくものがあった。
鳩《はと》?
雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の反射だけ、鳥にすれば三羽ほど、鳩一流のどこにあて[#「あて」に傍点]があるともない飛び方で舞っていた。
「あああ。勝子のやつめ、かってに注文して強くしてもらっているのじゃないかな」そんなことがふっと思えた。いつか峻《たかし》が抱きすくめてやった時、「もっとぎうっと」と何度も抱きすくめさせた。その時のことが思い出せたのだった。そう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。峻は窓を離れて部屋のなかへ這入《はい》った。
夜、夕飯が済んでしばらくしてから、勝子が泣きはじめた。峻《たかし》は二階でそれを聞いていた。しまいにはそれを鎮《しず》める姉の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。信子が勝子を抱いている。勝子は片手を電燈の真下へ引き寄せられて、針を持った姉が、掌へ針を持ってゆこうとする。
「そとへ行って棘《とげ》を立てて来ましたんや。知らんとおったのが御飯を食べるとき醤油《しょうゆ》が染みてな」義母が峻にそう言った。
「もっとぎうとお出し」姉は怒ってしまって、邪慳《じゃけん》に掌を引っ張っている。そのたびに勝子は火の付くように泣声を高くする。
「もう知らん、放っといてやる」しまいに姉は掌を振り離してしまった。
「今はしようないで、××膏《こう》をつけてくくっとこうよ」義母が取りなすように言っている。信子が薬を出しに行った。峻は勝子の泣声に閉口してまた二階へあがった。
薬をつけるのに勝子の泣声はまだ鎮まらなかった。
「棘はどうせあの時立てたに違いない」峻は昼間のことを思い出していた。ぴしゃっと地面へうつっぶせになった時の勝子の顔はどんなだったろう、という考えがまた蘇えって来た。
「ひょっとしてあの時の痩我慢を破裂させているのかもしれない」そんなことを思って聞いていると、その火がつくような泣声が、なにか悲しいもののように峻には思えた。
昼と夜
彼はある日城の傍の崖の蔭に立派な井戸があるのを見つけた。
そこは昔の士《さむらい》の屋敷跡のように思えた。畑とも庭ともつかない地面には、梅の老木があったり南瓜《かぼちゃ》が植えてあったり紫蘇《しそ》があったりした。城の崖からは太い逞しい喬木《きょうぼく》や古い椿《つばき》が緑の衝立《ついたて》を作っていて、井戸はその蔭に坐っていた。
大きな井桁《いげた》、堂々とした石の組み様、がっしりしていて立派であった。
若い女の人が二人、洗濯物を大盥《おおだらい》で濯《すす》いでいた。
彼のいた所からは見えなかったが、その仕掛ははね[#「はね」に傍点]釣瓶《つるべ》になっているらしく、汲みあげられて来る水は大きい木製の釣瓶|桶《おけ》に溢れ、樹々の緑が瑞《みず》みずしく映っている。盥の方の女の人が待つふり[#「ふり」に傍点]をすると、釣瓶の方の女の人は水をあけた。盥の水が躍り出して水玉の虹がたつ。そこへも緑は影を映して、美しく洗われた花崗岩《かこうがん》の畳石の上を、また女の人の素足の上を水は豊かに流れる。
羨《うらや》ましい、素晴《すばら》しく幸福そうな眺めだった。涼しそうな緑の衝立の蔭。確かに清冽《せいれつ》で豊かな水。なんとなく魅せられた感じであった。
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きょうは青空よい天気
まえの家でも隣でも
水|汲《く》む洗う掛ける干す。
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国定教科書にあったのか小学唱歌にあったのか、少年の時に歌った歌の文句が憶《おも》い出された。その言葉には何のたくみも感ぜられなかったけれど、彼が少年だった時代、その歌によって抱いたしん[#「しん」に傍点]に朗らかな新鮮な想像が、思いがけず彼の胸におし寄せた。
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かあかあ烏《からす》が鳴いてゆく、
お寺の屋根へ、お宮の森へ、
かあかあ烏が鳴いてゆく。
[#ここで字下げ終わり]
それには画がついていた。
また「四方」とかいう題で、子供が朝日の方を向いて手を拡げている図などの記憶が、次つぎ憶い出されて来た。
国定教科書の肉筆めいた楷書の活字。またなんという画家の手に成ったものか、角
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