が地べたへひつつく」といふ空間を無視した表現法のためである。これによつて彼は知覺、若しくは感覺の速度を表現し得たのである。私はここに後來「馬」等々に達した端緒の一つがあると思ふ。それは空想と云はんよりは實感であり、實感であるよりは實感をあらはすための手段であり、――そしてそれは最後の段階に達して、手段そのものから嘗て一度も人間の頭腦に存在しなかつたやうな「實感」を呼び起す作品を形成する。「對象を主宰して獨自の世界へ連れてゆく」やうな詩とは畢竟この段階のものを指すに外ならない。北川冬彦の「馬」は cubist を聯想せしめる。しかし決して「故なくして」ではないのである。
 その他彼は多くの cubist 達を聯想せしめる作品を「檢温器と花」のなかに書いてゐる。例へば「水兵」「女と雲」の明るい風景。「薄暮」「壁」の陰氣な風景。そしてここに示された彼の手法は實に完璧である。
 北川冬彦にも嘗て器物愛好があつた。それは何を。檢温器をである。では彼は病氣ででもあつたのか。否。「樂園」「落日」――この抒情的な靜けさのなかで、彼はそれを愛することをおぼえた。
「花の中の花」「檢温器と花」といふ詩集の名は「樂園」や「落日」のなかの檢温器、それからこの詩などから得て來たものではなからうか。この作品は小説に於ける横光利一を聯想せしめる。北川冬彦はこの詩を愛してゐるにちがひない。
 紙數がない。次へはひらねばならぬ。
「戰爭」及「光について」。即ち「檢温器と花」以後三年間の勞作である。
 私は彼のこの三年間を深い感慨なしには回想することが出來ない。彼は生き死にの苦しみを經て生きて來た。
「絶望の歌」。これこそはモニユメントである。この一種人に迫る鬼氣を持つた作品は彼の陷つた絶望の深さを示してゐる。恐らくこれほど彼の愛し且つ憎む作品はないであらう。しかし彼は死なずに生きて來た。骨を刻むやうに詩を作りながら。
「絶望の歌」や「肉親の章」は第二詩集以後彼の示した一つの轉向であつた。人は彼の詩が「小説のやうになつた」と云つた。彼はこの形式に彼の恐ろしい苦悶を盛りはじめたのである。
「腕」(26[#「26」は縦中横]頁)の白癡のやうな笑ひ。無題(18[#「18」は縦中横]頁)及び無題(27[#「27」は縦中横]頁)の夢魘。人はこれらの詩のなかにも彼の苦悶を讀まねばならぬ。さるにしてもこの「腕」の大
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング